NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」を実際に見て詳しく解説

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NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」

NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」とは、1992年12月から翌年8月まで放送されたNHKスペシャルで、6回にわたって太平洋戦争で日本が敗けた原因を詳細に解説しています。
ちょうど終戦から50年になろうとしている節目のときの番組でした。
私がこれを見たのは中学生のときで、NHKスペシャルを本放送で見ました。
太平洋戦争のことがものすごく勉強になり、戦争とは何かということを学びました。
もう20年以上前の作品になりますが、今見ても古くない錆びない名作で、現代日本が学べる教訓を今に伝えています。
このコーナーでは、その「ドキュメント太平洋戦争」を今改めて視聴し、詳しく解説していきたいと思います。
なお、この番組はDVDとして販売されていますが、NHKのサイトで無料で見ることもできます。(ただし画面は小さいです)
 

第1集 大日本帝国のアキレス腱 〜太平洋・シーレーン作戦〜

1992年12月6日放送。
第1回目の特集では、日本のシーレーン防衛に焦点が当てられました。
日本は自存自衛のため、東南アジアの石油等の資源を求めて進出したわけですが、そこで日本への約5000キロにわたるシーレーンをどう守るかという問題が浮上しました。
アメリカはそこに着目し、潜水艦を派遣し、日本の輸送船を徹底的に沈め、資源補給路を遮断する作戦に出ました。
日本海軍は大艦巨砲主義の艦隊決戦主義で、海上輸送路を守るという考え方がなく、護衛艦はゼロに等しく、まるで無力でした。
アメリカ軍は開戦前から潜水艦による日本輸送船壊滅作戦を構想しており、開戦後ただちにその作戦を実行に移しました。日本勢力圏下の海域に進入し、輸送船団を攻撃し、沈没させます。
開戦前に行われた日本軍の輸送船被害予想量の積算はずさんで、楽観的な予測に基づくものでした。実際は、その予想をはるかに上回る被害を出したのです。
そしてガダルカナル島の戦いでは、根拠地ラバウルからの1000キロにわたる補給路において、日本輸送船を攻撃し、日本の補給路は壊滅的な打撃を受けます。
軍に必要な船舶はひっぱくし、国民生活の維持のために必要な資源輸送用の船舶を軍に回すことになりました。その結果、国民生活はたちまち物不足になり、国民生活は犠牲にされました。南方からの米を輸入できなくなった日本では、芋などの生産が励行されました。また石炭も鉄鉱石も入ってこず、船が作れないという悪循環になります。
東南アジアの人々も船が徴発され、貿易ができなくなり、物不足になり、生活が苦しくなりました。東南アジアの人々の生活も犠牲になったのです。
アメリカ軍は潜水艦による輸送船撃滅と機雷による海上封鎖で、日本の降伏は実現できると考えていました。日本はもっとも大切な資源補給路を撃破されて、徐々に敗戦へと向かっていくことになります。

第1回目から衝撃的な内容です。
日本は資源を求めて南方に進出したわけですが、その輸送をどうするか、その輸送路をどう守るかが白紙だったという指摘に、あらためて勉強させられました。
日本軍は戦艦や空母などの最新鋭の軍備を整えていましたが、実は資源輸送路防衛についてはほとんど対策がなく、そこをアメリカ軍が見抜いていて潜水艦による通商破壊作戦を実行に移したというのも、驚きでした。開戦当初、日本軍は広大な地域を支配下に置いたわけですが、その地域の中にアメリカ軍潜水艦は侵入し、日本軍補給路を破壊し続けました。それに対して、日本軍は有効な対策を打つことができず、被害は拡大し続けました。
そして、本土の国民生活だけでなく、アジアの人々の生活も犠牲にされて、戦争は遂行されることになります。
アメリカ軍はいわゆる兵糧攻めを行なったわけですが、この兵糧攻めはアメリカ軍の想定通りの成果を上げました。海を守ると一口に言っても、敵の戦艦や空母を沈めればいいというものではなく、海上輸送路の防衛を真剣に考えなければならないという教訓を学びました。
戦艦や空母、戦闘機などの派手な活躍が正面に出て、輸送船の戦いはあまり語られてこなかったですが、なかなか光が当てられることがないこういった影の部分に日本軍の敗戦原因があるということを学びます。
 

第2集 敵を知らず己を知らず 〜ガダルカナル〜

1993年1月10日放送。
第2回では、ガダルカナル島の陸軍の戦いに焦点が当てられます。
この島の戦いで日本兵31400人のうち、2万人余が死亡しました。
不敗の日本陸軍は初めて惨敗を喫します。そこには己を過信し、敵を侮る姿勢がありました。
緒戦で快勝した日本軍は、フィジー・サモアを攻略することを企画し、その前進基地としてガダルカナル島に飛行場を建設し始めました。一方アメリカ軍は日本への反撃の第一歩をガダルカナルと決めました。そして、上陸作戦のために特別に編成されて訓練された海兵隊を初めて投入し、ガダルカナル島に上陸させました。
日本陸軍は中国を重視し、中国に大兵力がさかれていました。アメリカ軍の本格的反攻はもっと先のことと考えられていて、日本軍の兵士たちはアメリカ兵は女といちゃつくふぬけで、戦車も飛行機もがたがたと教えられていました。
ガダルカナル島に上陸した一木支隊は夜襲の白兵突撃を敢行するも、アメリカ軍の激しい機関銃の十字砲火にさらされ、死亡率は85%におよびました。そして一木支隊の総攻撃は失敗しました。
夜間の白兵突撃、それは日露戦争からの日本陸軍の得意技でした。
日露戦争と変わらない戦術で、日本軍では精神力が強調されていました。
次に上陸した川口支隊は、敵の背後を突く作戦に出ましたが一度目の総攻撃と戦術は変わらず、失敗し、戦場の舞台となった高地は「血染めの丘」と呼ばれました。
日本軍は二度の失敗をしますが、戦法を変えません。気合で敵を倒せと言われていたのです。
日本はノモンハン事件(1939年)でもソ連軍に惨敗していて、ソ連は第一次世界大戦から学び、最新の戦車と戦術で攻めてきました。しかし、日本は第一次世界大戦から学ばず、このノモンハンの惨敗からも学びませんでした。
アメリカ軍は日本語将校を増やすために学校を作り、語学情報将校を養成しました。アメリカ軍は日本兵が持つ日記を読みました。そこには「死にたくない」「妻のところに帰りたい」と本音がつづられていました。また、捕虜となった日本兵は何でもアメリカ軍に話しました。アメリカは日本兵は死を恐れないスーパーマンと思っていましたが、我々と同じ死を恐れる人間なんだと理解したのです。
そして三度目の総攻撃が計画されますが、その突撃もまた失敗し、日本軍はガダルカナル島から撤退することになります。軍は撤退を「転進」と表現し、敗北を糊塗しようとします。
日本軍は事実を事実として認めようとせず、失敗を失敗として認めようとしない傲慢の集団心理の中にありました。
日本は外国より優れているというのが大和魂の根本とアメリカは分析したのです。

日本海軍は日露戦争の日本海海戦の勝利以来、艦隊決戦主義を貫いてきましたが、日本陸軍もまた日露戦争以来の白兵銃剣突撃戦術を貫いていたという事実をあらためて確認し、驚きます。陸軍もまた、日露戦争当時の教条から離れることができず、明治時代の考え方を維持したまま第二次世界大戦に突入しました。
アメリカ軍は日本語学校を作って日本語を理解する将校を増やすなどして、必死になって日本軍と日本人を理解しようと努力します。そして敵とは何かということを真剣に調査します。そのアメリカ側が行った日本を知ろうという努力にも驚き、敬服します。
考えれば、確かに日本軍はガダルカナルにおいて三度の総攻撃を行いますが、三度とも夜襲による銃剣突撃と戦法はまったくかわりませんでした。一度目の失敗に学び、次はそれを改良して、それに失敗したらまた改良して、という試行錯誤していくことの大事さを学びます。残念ながらそのような余裕は日本軍にはなかったのが現実でした。
己を過信し、相手を侮る心理というのは、日常生活でもよくあることだと思います。私自身もまた、同じようにならないように謙虚な姿勢でありたいと思います。
 

第3集 エレクトロニクスが戦(いくさ)を制す 〜マリアナ・サイパン〜

1993年2月7日放送。
第3回目では、レーダーなどのエレクトロニクスの活用について焦点が当てられます。
マリアナの戦いでは電子兵器が活躍しましたが、日本は終戦までほとんど知りませんでした。
サイパン島は日本の絶対国防圏の要衝として位置づけられましたが、アメリカとイギリスはサイパン島の占領を決定します。サイパン島を攻略し、そこから爆撃機を発進させて日本本土を空襲しようと考えていたのです。そしてアメリカ軍はサイパン島に上陸します。
これに対し、日本海軍は「あ号作戦」を発動し、サイパン島奪回を狙います。
日本艦隊の小沢治三郎司令長官はアウトレンジ作戦を考えます。アメリカ軍機より日本軍機の航続距離が長いことを活かして、アメリカ軍機の行動範囲外から攻撃するという作戦で、アメリカ空母部隊を発見した小沢艦隊は攻撃隊を発進させます。このとき小沢長官たちは「勝った」と思いました。
しかし、アメリカ艦隊側は最新鋭のレーダーで日本軍機の存在を見抜いていました。
アメリカ軍は真珠湾攻撃以来、防御の要としてレーダーを重視していたのです。日本軍にもレーダーはありましたが、防御用兵器ということで軍人たちは重視せず、技術も未発達で実用に耐えるとは言い難いものでした。日本軍は攻撃最優先の考え方で、レーダーなどの防御兵器の開発は遅れていました。
また、アメリカ軍戦闘機は防弾防御に配慮されていました。パイロット1人を育てるのには2年の歳月と高額な費用がかかることをアメリカ軍は認識し、パイロットの命を守ることを重要視したのです。
一方、零戦などの日本軍機は防弾が軽視されました。前線部隊からは防弾性能の強化が求められていましたが、それはなかなか重要視されませんでした。
そしてアメリカは戦艦や空母を守るためにVT信管を開発し、マリアナ沖海戦で初めて投入します。
VT信管は電波を出して標的を感知し、すぐ近くで砲弾を爆発させる装置で、中には真空管が入っていますが、砲弾発射のショックに耐えられる真空管を開発するためには大変な苦労がありました。アメリカは民間の科学者を集めてカーネギー研究所という研究所を作り、真空管研究を進めました。そして、VT信管の開発に成功しました。
VT信管はその性能を最大限に発揮し、アメリカ艦隊に近づいた日本軍機は壊滅的な打撃を受けました。そして、アメリカ空母部隊から発進した航空機によって攻撃された日本艦隊は空母3隻を失って敗北します。
日本において民間の科学者を結集させなかったのは軍の過信でした。攻撃最優先、人命軽視という流れは特攻隊につながってもいきます。

私は中学生の時にこの番組を見て初めてVT信管というものの存在を知りました。真空のガラス管を砲撃の衝撃でも壊さずに発射するという技術に驚きました。
アメリカは真珠湾攻撃などの手痛い奇襲攻撃の経験から、早期警戒を重視してレーダーなどを強化していったものと思いますが、民間の科学者の力を借りて結集して最新鋭の科学技術兵器を開発していったということで、民間の科学者の力をうまく協力させて有効活用できたのはアメリカの優れた点だったと思います。
アメリカの人命重視の精神は長所だと思います。日本軍にも人命重視の精神があって、防弾防御性能を意識し、兵士たちの命を守って息を長くして戦うという精神があればと思いますが、日本には余裕が何もなかったということなのかもしれません。
アメリカの防御を意識する精神はすぐれた科学技術の開発に結び付き、成功を収めました。そのようなアメリカの当時の精神からは学ぶところが非常に多いと思います。
 

第4集 責任なき戦場 〜ビルマ・インパール〜

1993年6月13日放送。
第4回目では、日本兵3万人以上が死亡し、太平洋戦争でもっとも悲惨な戦いと言われたインパール作戦をテーマに取り上げます。
米英はカサブランカ会談でビルマ奪回について合意、連合軍のビルマへの圧力が高まる中、ビルマを防衛する日本軍第15軍では、連合軍の拠点であるインドのインパールを攻略する作戦が考えられます。第15軍司令官の牟田口廉也中将はこの作戦を推し進めようとしますが、15軍内でも反対にあいます。兵站出身の小畑信良参謀長は補給が続かないと反対します。2000m級のアラカン山系とチンドウィン川を越えて補給をするのは難しいと。
一方、東条英機首相はビルマをテコにイギリスを屈服させようと考えていました。
東条はビルマを独立させ、インド独立運動をしていたチャンドラ・ボーズを支援しました。ビルマでなんとかしたいという東条の意向が働き、戦局が敗戦続きであったこともあって、インパール作戦への期待が生まれました。
作戦に当たり、第15軍は自動車など輸送力の強化を求めますが、大本営はその2割しか認められなかったのが現実でした。インパールに攻め入れば、イギリスから自動車も食糧も取れるだろうという発想がありました。
日本軍は後方兵站を軽く見過ぎていました。ソ連を仮想敵国にした短期決戦を想定し、ますます補給は軽視されました。
イギリス第14軍のウィリアム・スリム中将は日本軍の動きを察知し、インパールまで引き込み、補給線が伸びきったところを叩くという作戦に出ます。
日本軍のインパールへの行軍が始まりました。トラックを分解して運び、3週間分の食糧を一人一人が背負い、その装備は40キロにもなりました。イギリス軍は装備が一新され、開戦時に敗退したイギリス軍と違っていました。そしてビルマに雨季が到来し、さらに戦闘は難しくなります。弾薬食糧が尽き、前線部隊は補給を求めますが、軍は補給を送ることができません。食わず飲まずで弾がなくても戦うのが皇軍だと軍は言ってきかせます。
弾薬尽き食糧がなくなり、部隊に飢餓が蔓延し、第31師団長の佐藤幸徳中将は軍に無断で撤退を開始します。日本陸軍初の師団長クラスの抗命事件が起こります。
インパール作戦は失敗に終わりますが、軍上層部は責任を問われませんでした。佐藤幸徳中将は軍法会議を覚悟していましたが、心神喪失ということにされ、軍法会議は不起訴となりました。軍法会議で責任を問えば、他の上層部の責任や任命者の責任も問われかねません。責任をあいまいにし、上層部は自分たちの身を守ったのです。
ビルマの日本軍は戦局を立て直せず、そのまま敗走していきました。

当時高校生になった私は、この回を固唾を飲んで見ました。そして初めて佐藤幸徳という人物を知り、佐藤がいかに憤怒に燃えていただろうかとその心境を想像しました。飢餓に苦しむ部下のことを想い、自分の責任で独断撤退した判断は勇気があったと当時は思いましたが、その独断撤退のためにインパールで戦っていた他の師団はさらに苦しむこととなり、部下の命を預かる指揮官の判断の難しさを思います。最善な判断はいつも難しいですが、部下たちのために命令に反してでも行動を起こすという勇気は必要だと思います。
日本軍は補給を軽視していました。食わず飲まずで弾がなくても戦うのが皇軍だとは非常に無茶苦茶な話ですが、そんなふうに本気で思っていたのが当時の日本軍でした。精神論に走りすぎ、科学的に物事を考えることがおざなりになっていたことを思います。
佐藤幸徳は軍法会議も恐れてはいませんでしたが、責任が自分たちに及ぶことを恐れ、軍は軍法会議にかけませんでした。そして責任はあいまいにされました。責任をあいまいにし、上層部が責任を取らず、さらに次のあやまちが犯されるとは現代社会でもありうることですが、次の間違いを起こさないために、起こした間違いをしっかり反省することが大切だと考えます。
 

第5集 踏みにじられた南の島 〜レイテ・フィリピン〜

1993年8月8日放送。
第5回では、フィリピンを舞台に日本と現地住民の関係について焦点を当てていきます。
日本軍はフィリピン人ゲリラに手痛くやられますが、なぜフィリピン人を敵にまわすことになったのでしょうか。
フィリピンは40年アメリカの植民地としてアメリカの影響下にあり、自由主義的な教育が行われていました。
一方で、日本人はフィリピン人を見下していました。
八紘一宇(はっこういちう)というスローガンの中心には天皇が存在しました。
フィリピン人に天皇崇拝が強制されました。そして、現地住民には我慢させる、重圧を忍ばせる政策が取られたのです。
日本軍は今までの通貨を禁止し、代わりに軍票を大量に発行しました。その結果、大インフレが起こり、物価は100倍になり、フィリピン人の生活は大変なものになります。今までのサトウキビから日本で必要な綿花の栽培を強制したりしましたが、この綿花の生産はフィリピンの気候に合わず大失敗します。
そのような中で、さまざまな抗日ゲリラ組織が誕生します。
日本はフィリピンを独立させますが、軍の関与は今までどおりで事実上骨抜きでした。
マッカーサーのアイシャルリターンの言葉はゲリラの精神的な支えとなっていきます。アメリカ軍はゲリラに武器食糧を援助し、ゲリラは日本軍の動きを逐一報告し、マッカーサーの目と耳と呼ばれます。
追い詰められた日本軍はフィリピン人ゲリラや住民に厳しく当たります。現地住民がゲリラに協力したなどの理由で日本軍によって殺されるようになります。
マッカーサーはフィリピン人ゲリラの情報を元に、最初の上陸地点として日本軍の守備の手薄なレイテ島を選びます。レイテ島はフィリピン人ゲリラの勢力が強かった島でもあります。そしてさらに防備の手薄なタクロバンに主力を上陸させます。
大東亜共栄圏の建設の理念に対して、フィリピン人の心はますます離れていきました。そして、日本軍はレイテ島で敗退し、ルソン島のマニラ市街戦で敗退します。
フィリピン人で日本人に協力した人たちは日本と戦ったフィリピン人から厳しい仕打ちを受けます。そしてフィリピン人同士で憎しみ合うようになります。マッカーサー率いるアメリカ軍はフィリピンの再植民地化を推し進めます。
現代の日本のアジア進出に対して、日本の価値観を押し付けていることがないとは言い切れるでしょうか、と番組は問いかけます。

当時高校生だった私は、日本軍がフィリピンの現地住民に対して厳しい政策を行い、フィリピンから資源を奪うように獲得していた事実を知り、それでは東南アジアの人たちはだれも日本に協力しようとしないだろうし、戦争が敗けるのも当然だと思いました。戦争を進めるに当たって、なぜ現地住民に手厚い政策ができなかったのかと思いましたが、資源や国力に余力のない日本は、現地住民をあたたかく守るような政策はできなかったのです。
大東亜共栄圏という理想は、日本人のフィリピン人を見下した姿勢や、キリスト教を信じているフィリピン人に天皇崇拝を強制したり、日本の自活のために資源を収奪し、現地住民に我慢を強いる中で、理想とは程遠く、フィリピン人の理解を得られるものではありませんでした。
今回の番組ではフィリピンを例に取り上げましたが、そのようなことは日本の占領地域の各地で起こっていたことで、アジアの人々たちの気持ちはますます日本から離れていきました。アメリカのように豊富な物資を与えれば現地の人々の気持ちも日本に協力的になったとは思いますが、日本にその力はなく、また心情も現地人に対して優越的で、それでは現地の人々の協力はまったくえられず、戦争が遂行できずに負けたのも当然だと思います。
人間は一人では生きていけないわけですが、他人と友好的な関係を築き、他人からどう協力してもらうか、そしてお互いに支え合いながらどう互いに生きていくか、重要な教訓を私たちに投げかけているように思います。
 

第6集(最終回) 一億玉砕への道 〜日ソ終戦工作〜

1993年8月15日放送。
最終回の第6回目では、終戦直前の日ソ終戦工作に焦点を当てて、日本の終戦のあり方を検証しています。
1945年8月9日、170万のソ連軍が満州に侵攻します。
ソ連に日本の和平工作を仲介してもらおうと考えたわけですが、仮想敵国であったソ連にすがるという愚かな選択はなぜ行われたのでしょうか。
1945年2月のヤルタ会談でソ連は日本に参戦するとスターリンは約束しました。このことを日本はまったく知りませんでした。
本土空襲が激化して敗戦が色濃くなってくると、国民に名誉や忠義を重んじて潔く死ぬことを陸軍は主張し始めました。本土決戦を考えるにあたって、対ソ関係が静かであることが求められ、それには日ソ中立条約が唯一のよりどころでした。ソ連は日本に日ソ中立条約は延長しないと通告します。しかし条約が切れるまでには1年の余裕がありました。
ソ連は将来米ソが対立すると予測し、満州や朝鮮半島、そして千島列島を失うのは得策ではないと分析します。
陸軍は独ソ和平を斡旋するという構想を持ち、外務省に押し付けました。1944年にはソ連を枢軸国に引き込もうと外務省は考えていましたが、駐ソ大使佐藤尚武はそのような東京の要求をありえないと考えていました。
1945年5月、陸軍が頼りにしていたドイツは降伏。日本はソ連が参戦してくる事態を恐れました。そして日本は、ソ連の対日参戦防止を図り、ソ連に日本の和平を依頼することを決めました。
陸軍は、日本が占領地を広大に持っていることから、日本は負けていないと考えていました。外務大臣東郷茂徳は終戦を主張しましたが、陸軍は反対します。日本は「国体の護持」にこだわります。
ソ連に和平仲介を依頼するため、元首相近衛文麿を特使として派遣することを考えますが、ソ連は目的がよくわからないと断ります。ソ連への具体的提案がなく、佐藤尚武駐ソ大使はそのような提案はソ連に対して意味がないと考えます。
1945年7月、ポツダム宣言が出され、そこでは「日本国軍隊の無条件降伏」が要求されます。軍隊の無条件降伏であって日本自体の無条件降伏ではないので外務省は国体の護持はできると考えますが、陸軍は国体の護持が不明瞭であると受け入れを拒否します。
ソ連外相モロトフは佐藤尚武駐ソ大使を呼びます。近衛文麿特使を受け入れてくれると甘い期待をした佐藤大使に、モロトフはソ連の対日宣戦布告を通告します。
今も昔も日本は変わっていないとアジア諸国の人たちからは指摘をされたそうです。強い外圧がないと動かないのは当時の日本も現代日本も変わらないのではないか、また、現代日本はエゴイズムや経済大国への思い上がりがあるのではないか、番組はそう訴えかけます。

本放送を見た時は高校生でしたが、いくら日ソ中立条約があったとはいえ、連合国と枢軸国で互いに激しく戦っているソ連に対して和平を仲介してもらうというのは無謀であったと感じました。しかも終戦直前の状況で仲介を依頼しても成功するはずがないと感じましたが、当時の日本、特に軍部は「わらをもすがる思い」だったのでしょうか。
日本の無条件降伏への過程を考えるとき、陸軍をはじめとする日本の指導者たちは保身に終始していたように感じられます。日本が降伏した場合は自分たちがどうなるか分からない、だから降伏したくないという心理が感じられるように思います。
リーダーは失敗したときに自分が責任を取る、自分はどうなっても構わないという覚悟を持つ必要があると思います。自分はどうなっても構わないから部下たちだけは助ける、そういう信念と心意気がないと、敗北後のことを怖れてずるずると失敗を続けるということになろうと思います。
また、勝利する側も敗北する側に寛大な気持ちを持つことが必要だと思います。負ける側をどうするか分からないでは、負ける側は徹底抗戦の気持ちを固めてしまうでしょう。双方に完全支配を求めていたのが第二次世界大戦の戦争だったと思いますが、第二次世界大戦から私たちは何を学ぶことができるのか。ほどほどのところで争いを終了して講和を結ぶことが、お互いの犠牲を少なくするためには大切なことだと思います。

6回にわたって「NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争」を詳しく解説してきました。
ちょうどバブル崩壊後のタイミングで作られた番組で、経済大国として揺らぎ始めた日本への教訓を引き出そうとし、過去と現代をつなげようとした番組の試みは評価したいと思います。
さらに20年経過した今見ると、当時ほど勢いがなくなった日本を考えた時に、時代のずれを感じないこともないですが、今見ても、現代に生きる私たちに鋭い問いかけを投げかけているように思われます。
 

 

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