祖父に戦争体験を聞く

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祖父の戦争体験

1978年に生まれた私は、小さな頃から祖父の戦争体験を聞いて育った。
戦争体験を聞く中で、人間とは何か、生きるとは何かということを考えさせられて育ったと思う。
祖父の戦争体験を語りたいと思う。そして、祖父の話を聞いて学んだことを書きたいと思う。

ビルマでの機銃掃射

祖父の戦争体験でもっとも印象深いのは、ビルマ(今のミャンマー)での出来事である。
そのとき、祖父はイノウエさんという人と並んでひげを剃っていた。
イノウエさんとの関係を深くは聞いていないが、名前を覚えているくらいだから親しい間柄だったのだろうと思う。
時刻は朝で、空は晴れていた。
屋外の流し場で、二人は立って並び、せっけんを泡立たせ、たわいもない話をしていた。
次の瞬間、敵の戦闘機が忍び寄り、銃撃を加える。
イノウエさんは首から血を吹いて死んでしまった。即死だったそうである。
祖父は首から血を吹くシーンを身振り手振りで話す。
すぐ近くで撃たれて死んだことを如実に感じる。
もし銃弾があとすこし横にずれていれば、祖父が死んでいただろう。
もしかしたら、祖父が死んでイノウエさんが生き残り、イノウエさんの孫が祖父の戦争体験を語っていたかもしれない。運命は紙一重で、ちょっとの差異で祖父は生き残り、イノウエさんは死んでしまった。

軍隊への召集

祖父は1920年(大正9年)9月15日に、山形県の最上川流域のとある村に生まれた。農村の三男坊で、旧制小学校を卒業後、関東の造船所で働いていた。
1940年(昭和15年)、20歳になった祖父は陸軍の召集を受ける。
召集されたのは兵隊ではなく作業員で(祖父はこれを「雑徭(ぞうよう)」と呼んでいた)、工事など軍隊での労役を行う人たちである。
陸軍の召集を受けてから、まず満州へ送られる。満州で冬用の装備衣服を与えられ、作業員の労役に就く。そしてあるとき、移動の命令を受ける。
当時の軍隊では上官は移動先を教えなかったそうで、移動先が分からないまま祖父は移動をはじめた。ただ、今まで使っていた冬用の装備を返却し、代わりに夏用の装備衣服を与えられたことで、南方に向かうということは理解できたそうだった。祖父たちは満州を後にして、船に乗り込み、移動していった。
そして船はヴェトナムの沖合に来たときに停まった。
どういうわけか知らないが船は動かず、祖父は船の上でしばらくを過ごす。原住民たちが舟にバナナをいっぱい積んで売りに来る。そんなバナナを軍票(軍が発行した貨幣)で買って食べながら、時間を過ごしていた。そんな船の上で太平洋戦争開戦の知らせを聞いた。1941年12月8日である。

開戦

開戦の知らせを聞いてもやはり船は動かず、しばらくしてからやっと船は動き出した。
そしてマレー半島上陸作戦が一段落ついた後のマレー半島に上陸した。
祖父の話では最初にマレー半島に派遣された人たちはみんな死んでしまったそうで、祖父の船が動かなかったことで祖父は最初の命拾いをした。マレー半島に入ってから、前線の後を追い、シンガポールに入る。
当時のシンガポールは公衆マナーに厳しく、たとえば空き缶を捨てるにもきちんと中身を出してゴミ捨て場に伏せて置かないといけなかったそうで、そういった厳しさは現在のシンガポールに受け継がれていると思われる。飛行場は巨大で島全体を覆わんばかりで、イギリスの根拠地ということで当時から発展していた様子だった。
移動する船の中には「もっこ」が積まれていたそうで、こんな道具で自分たちは仕事をするのかと祖父はあやしんだそうである。もっこというと江戸時代の土木作業というイメージであるが、当時の日本は土木機械を使わず(なかったわけではないが数があまりにも少なすぎた)、すべて人手による作業で行っており、そのことは末端の作業員たちにも不安を抱かせるものであった。
そして祖父はビルマへと移動し、すでに語ったとおりの機銃掃射事件へとつながる。ちょっとの差異で祖父は生き残ることになる。

本土への帰還

ビルマでは短期間を過ごし、それからタイに移動し、戦争が優勢だった頃、祖父は日本本土に帰還する。そして神奈川県川崎市のディーゼル工場で働き、そのディーゼル工場で終戦を迎える。
日本が優勢だった頃に本土に帰還できたことで、ここでも命拾いをする。もし日本の敗勢が色濃く、不利になっていたときに本土に帰るようなことになっていたら、米軍の潜水艦に撃沈されて海の藻屑となっていたかもしれない。
戦後、祖父は運輸会社に勤め、トラックの運転手として働く。そして結婚し、母が生まれ、私が生まれた。
2006年(平成17年)2月に祖父は亡くなった。85歳だった。
祖父が亡くなってからだいぶ後のことだが、年金記録の確認ということで、年金事務所から電話があり、戦争中に祖父がどこに勤めていたか確認の電話があった。対応した父はさすがに戦争中の祖父の勤務先までは分からず、確か神奈川で働いていたはず……というような話をした。確かに私もそんな風に聞いていたが、勤務先までは分からなかった。そんなときに、年金の方からディーゼル工場で働いていたという話を聞いた。そんな昔の記録が残っているものなのだと私も家族も驚いた。

命のリレー 〜祖父が生き残っていなかったら私も生きていなかった〜

祖父の戦争体験を聞いて強く思うことは、命はリレーなのだということ。
もし祖父が生き残っていなかったら、自分も生まれてはいなかったし、今こうやって文章を書いていることもなかっただろう。
祖父の葬式のとき、父は喪主のあいさつで「義父は戦争に行き、ビルマで機銃掃射を受け、あわや死ぬかという場面にも出会ったのであります」とビルマの機銃掃射事件に触れていた。もしここで祖父が死んでいたら、妻となるべき人も生まれていなかったのだから、父としても感慨深い事件なのだろうと思った。
祖先のことを「ご先祖様」と言い、先祖を敬う文化があるが、先人たちの命と努力があって今の自分があるということをあらためて思う。

21歳

ビルマの機銃掃射事件があったとき、祖父は21歳だった。
自分が21歳だったとき何をしていたかといえば、大学生時代で、毎晩友人たちと酒を飲んでは将来のことを熱く語り、夢に生きていた。そして二日酔いの頭で大学の講義を受け、休みのときはテレビゲームに興じたりしていた。酒臭い息で人生を語り、夢に燃えていた。
しかし、祖父は隣で友人が死ぬのを見なければならなかった。首から血を吹いて死んでいくのを見なければならなかった。祖父は友人を助けられなかった感情で絶望しただろう。そんな祖父の人生を思う時、自分との人生との差異を思う時、粛然とするのである。
大学は母の貯金で行かせてもらったが、私の恵まれていた大学生時代の21歳と、祖父の戦争に生きた21歳を比較するとき、当時の若者たちの無念さをあらためて思う。

祖父に戦争体験を聞く

子どもの頃、祖父から戦争に関する話をたくさん聞いた。
祖父から一方的に話されたわけではなく、私の方から進んで質問し、祖父から話を聞いた。太平洋戦争について分からないことがあると祖父に聞いた。祖父はリアルに当時の戦争のことを解説してくれた。人生を学ぶような感じで私は祖父の戦争の話を聞いた。祖父の戦争の話は哲学だった。私にとって最初の人間を教えてくれた話だったように思う。
就職してからしばらく経った頃、祖父も年老いてきて会話も難しくなり、もう先は長くないのではないかと思われ、あらためて戦争の話を聞こうと思った。祖父が亡くなる前に、もう一度戦争の話を聞きたかった。
やはり一番聞きたいのはビルマでの出来事だった。
子どもの頃祖父から聞いた話では、ビルマに長く滞在し、いろいろな経験をしたように思われたが、祖父の話ではビルマにいたのは短期間で、それからすぐにタイに移動したそうだった。
祖父は自室に入ると、押し入れから何かを出そうとした。何か戦争中の特別なものが出てくるのだろうかと期待したが、出てきたのはお芝居のチラシだった。
なぜお芝居のチラシなのだろうと理解できずに首をかしげていると、祖父はそのチラシを私の手から受け取り、くしゃりとひねって捨ててしまった。
祖父との会話は難しくなっており、それ以上の会話はもうできなかった。
それから程なくして、祖父は亡くなってしまった。

戦争体験を聞いて思うこと

祖父は進んで戦争体験を語ったが、運よく作業員として召集されたこともあり、自ら敵を撃って殺したりした経験はなかったということもあったと思う。もし自ら敵を撃って殺した経験があったり、誰かを虐待した経験があったとすれば、戦争のことを語ることはなかったのではないだろうか。
戦争の辛いところは、撃たれることもそうであるが、撃つことも辛いことであり、殺されることも嫌なことであるが、殺すことも嫌なことであるということだと思う。誰かを殺し、誰かが死ぬのを見なければならない、それが戦争の嫌な点であるだろう。
攻め込まれたら戦わねばならないと主張することは簡単なことである。自分の身を守ることは当然だとしても、それを踏まえた上で、どう争いを減らすか、起きにくいようにしていくにはどうしたらよいか、考えなければならない。

 



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