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日本軍潜水艦の攻撃により、ワスプ沈没、サラトガ大破

1942年8月31日、日本軍潜水艦伊26の攻撃により、アメリカ軍空母サラトガが大破。
さらに9月15日、伊19の攻撃により、アメリカ軍空母ワスプが甚大な被害を受け、
アメリカ軍駆逐艦の魚雷により自沈処分となりました。

サラトガとワスプの2隻は8月24日の第二次ソロモン海戦に参加しています。
第二次ソロモン海戦では被害のなかった2隻でしたが、
その後、日本軍潜水艦の活動により、大きなダメージを受けることになります。

アメリカ軍やドイツ軍などは潜水艦を通商破壊作戦の兵器と位置付け、
敵の主力艦隊を狙うよりは敵の輸送船団を狙う戦術に特化していましたが、
日本軍潜水艦は敵の主力艦隊の攻撃を任務とし、その戦術に特化していました。
そして、アメリカ軍空母に打撃を与えるという戦果を挙げました。

これらの日本軍潜水艦の活躍により、
アメリカ軍の太平洋方面での活動可能空母はホーネットのみとなってしまいましたが、
(エンタープライズは第二次ソロモン海戦で損傷を受けています)
ガダルカナル島のアメリカ軍基地航空部隊の活動により、
ソロモン海域での航空優勢はアメリカ軍の手中にありました。

日本軍潜水艦は敵主力艦隊攻撃、さらにガダルカナル島への物資輸送と、
大きな活躍を見せることになりますが、
戦艦大和などの大型戦艦部隊は活躍の機会を見出すことができず、
後方にとどまるばかりでした。
ガダルカナル島の消耗戦は続いていきます。

掲載日:2015年8月29日(土)

 

第二次ソロモン海戦起こる

1942年8月24日、ガダルカナル島を巡って第二次ソロモン海戦が起こります。
8月7日にアメリカ軍海兵隊がガダルカナル島に上陸し、
日本軍はこのアメリカ軍を撃破するため、
一木支隊先遣隊900名をガダルカナル島に送り込みますが、
8月21日、一木支隊先遣隊はガダルカナル島のアメリカ軍が占領する飛行場に突撃し、全滅しました。
そして日本軍はさらに陸軍兵力を派遣しようとして、
機動部隊をはじめとする艦隊にも出撃を命じました。
その機動部隊とアメリカ空母部隊が衝突、第二次ソロモン海戦となりました。

日本海軍からは翔鶴、瑞鶴、龍驤が、
アメリカ軍からはエンタープライズ、サラトガ、ワスプが参戦しました。
結果は日本軍は龍驤が沈没、アメリカ軍はエンタープライズが中破という結果に終わりました。
日本軍は陸軍兵力をガダルカナル島に上陸させようとしますが、
ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場のアメリカ軍の航空攻撃の前に果たせず、
作戦は日本軍の失敗に終わります。

ミッドウェー海戦で日本軍が空母4隻を失った打撃は大きく、
少ない空母部隊による兵力で日本軍は対応しましたが、
アメリカ軍の攻撃を防ぐことはできませんでした。
アメリカ軍はガダルカナル島に飛行機の輸送を成功させ、
ガダルカナル島基地航空部隊の活躍により、
もっとも重要である日本軍の陸上兵力および物資の輸送は果たすことができませんでした。

アメリカ軍と日本軍の攻防は一進一退を繰り広げていました。
この間にも日本軍兵士たちは飢えはじめ、
日本軍の小規模な輸送とアメリカ軍との死闘が続くことになります。

掲載日:2015年8月28日(金)

 

軍隊とメンタルヘルス

最近、メンタルヘルスの維持増進に興味があり、
軍隊とメンタルヘルスというテーマで数冊本を買いました。
自衛隊の隊員たちは東日本大震災の中で大変な苦労を味わい、
その中には精神的な苦労もかなり多くあったわけですが、
そんなことをテーマにした本や
自衛隊のメンタルヘルス管理から学ぶ私たちのメンタルヘルスをテーマとした本を
購入しました。

あまり表立って語られることはありませんが、
太平洋戦争時の兵士たちあるいは市民たちの精神衛生管理は
大変厳しいものがあったのだろうと思います。
今でいううつ病やPTSDといった問題は、
太平洋戦争中の軍国主義の精神論や標語で厳しく断ぜられ、
不幸な結末をたどったものと思います。
そんなテーマも少しずつ研究していきたいと思っています。

掲載日:2015年8月27日(木)

 

ポートモレスビー陸路攻略を目指して進撃

1942年8月。
ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸し、
一木支隊をはじめとする日本軍部隊がガダルカナル島を舞台に激しく戦っているとき、
東部ニューギニアでは、
アメリカ・オーストラリア軍の一大拠点ポートモレスビー目指して、
陸路日本軍が大移動を行っていました。

当初は海路ポートモレスビーを攻略する予定でしたが、
1942年5月7日の珊瑚海海戦の事実上の敗北によって
海路攻略は中止となり、
陸路による攻略が研究されていました。
4千メートル級の山々が連なるオーエンスタンレー山脈を越えるルートについて
もともと道はなく、
ジャングルの中を切り開いて山々を乗り越えるという道のりでした。
当初はそういう攻略ができるかどうかの「研究」だったのですが、
十分な研究もされないうちにそれは正式な攻略作戦となります。

ガダルカナル島の戦いをしている裏で、
ポートモレスビー攻略作戦も発動しており、
日本軍は完全に二正面作戦を展開していました。
ガダルカナル島へのアメリカ軍の上陸を察知した後は
ただちにポートモレスビー攻略を中止すべきだったと思いますが、
当時の日本軍は十分な敵情把握ができておらず、
この二正面作戦を続投してしまいます。

並行して戦いを続けて、ガダルカナル島もポートモレスビー攻略も
泥沼の戦いとなっていきます。

掲載日:2015年8月23日(日)

 

戦後70年の終戦記念日を過ぎて

戦後70年目の終戦記念日が過ぎました。
語り部の会にも数多く出席しましたし、テレビ番組も多く見ました。
そこで思ったのは、戦後70年目にして新事実が数多く出ているし、
70年目にして新事実を語り出した人も多いということでした。
私は戦後70年ということで、もう新しい話は何もないのではと思っていたのですが、
いやいやどっこい、
新しい話が次々と出てきて、70年目にして封印が解かれたようで、
驚きの連続のような終戦70年目を迎えました。

戦争体験者もつらい体験だと思うので今までなかなか語れなかったでしょうし、
世間の目もあって語りづらかったのだと思いますが、
もう寿命も近いということで、
堰を切って語り出したのかもしれません。
その証言は大変貴重で、興味深くおもしろく、とても参考になったと思います。
後に生きる者として、大変貴重な証言であると思います。

今度は戦後71年になりますが、
引き続き新事実の発見に自分も努めていきたいと思います。

掲載日:2015年8月22日(土)

 

戦争体験者の声をまとめる

今日の埼玉新聞の記事で、熊谷空襲体験者の声をまとめた
「戦後70年太平洋戦争・熊谷空襲体験者の証言」
という本を自費出版したという記事がありました。
著者は地域の歴史を研究されている方で、
5年前に熊谷空襲について本を出版したところ、
70〜80代の市民から空襲の記憶を書いた手紙が多数届いたということで、
その声をまとめて文字に残そうということになり、証言集の出版となったそうです。
75人の証言を集めたということで、
数多くの体験者がいらっしゃる事実をあらためて感じました。

戦争体験者が亡くなり、戦争の記憶が薄れつつある今、
こうして戦争体験者の証言を集めることは大事なのだと思いました。
市民の草の根レベルの運動が、いずれは大きな力になっていくと思います。
戦争体験者の言葉を集めて、後世に残していくことが
戦争の記憶を風化させず、後世の日本の針路の足がかりになるのではと思います。

掲載日:2015年8月21日(金)

 

アメリカ軍、ベララベラ島に上陸

1943年8月15日、中部ソロモン諸島のベララベラ島にアメリカ軍が上陸します。
2月のガダルカナル島日本軍撤退以来、アメリカ軍は中部ソロモン諸島を攻めていました。
イタリアを攻めている裏で、アメリカ軍は日本軍への攻撃について手を抜かず、
遅々としてはいましたが、確実に日本軍への包囲網を狭めようとしていました。
8月5日にニュージョージア島のムンダ飛行場を占領したアメリカ軍は、
その矛先をコロンバンガラ島に向けようとしていましたが、
コロンバンガラ島の日本軍の守備の手厚さを見たアメリカ軍は、
それを飛び越えて、守備が手薄と見られたベララベラ島に上陸することを決めます。
そして、8月15日、上陸が決行されました。

1943年の夏、中部ソロモン諸島を巡る日本軍とアメリカ軍の攻防は熾烈をきわめていました。
アメリカ軍は守備の堅い島を飛ばして進むという戦術をとっており、
これによって日本軍は取り残されることになりました。
十分な制空権および制海権のない状況では、
島に残された陸軍兵力は十分な力を発揮できない状況になっていました。
それでも日本軍守備隊はアメリカ軍に頑強に抵抗し、
アメリカ軍は日本軍の攻撃に手を焼いていたのです。

ベララベラ島には日本軍の増援も送り込まれ、
第一次ベララベラ海戦が起こります。
海戦の結果、なんとか増援の輸送には成功しますが、
その後の補給がやはり続かず、アメリカ軍の攻撃の前に苦戦することになります。

掲載日:2015年8月20日(木)

 

国民総武装決定、竹槍訓練はじまる

1944年8月4日、時の小磯国昭内閣は「国民総武装」を閣議決定し、
これにより、女性をはじめとする銃後の市民たちは、竹槍の製造と訓練を始めることになります。

前月にはサイパン島が玉砕し、東条英機内閣は総辞職しました。
また、日本本土がB−29の勢力圏下に入ることが明らかとなりました。
日本では本土決戦が叫ばれ、国民総武装決定となります。

国民総武装と名前は威勢がよいですが、
武器らしい武器は全く配布することができず、
市民各自が竹を切り出して槍とし、
市民たちは真剣に竹槍による訓練に邁進することになります。

アメリカ軍機が撃墜されてパイロットが脱出したとき、
竹槍によって殺害されたという事件もあったと言われていますが、
国民の武装化はおよそ戦力にはならず、敗戦を迎えることになります。
終戦のおよそ1年前にはすでにもうこのような状態でした。

掲載日:2015年8月19日(水)

 

一木支隊、ガダルカナル島タイポ岬上陸

1942年8月18日、一木支隊の先遣隊900名がガダルカナル島のタイポ岬に上陸します。
ここからガダルカナル島の長い戦いが始まります。

一木支隊2400名のうちの一部が到着したのみでしたが、
支隊長一木清直大佐は先遣隊のみでのアメリカ軍攻撃を計画します。
日本軍にはアメリカ軍に関する情報がほぼなく、
アメリカ軍の兵力は実際の10分の1の2000名と考えていたこと、
何よりアメリカ軍は弱く、すぐ逃げていくだろうと考えていたことなどがあり、
先遣隊900名での攻撃を敢行することになりました。

しかし、アメリカ軍は第1海兵師団の精兵であり、
日本軍の攻撃を待ち構えていたのです。
アメリカ軍の激しい機関銃の十字砲火の前に
日本軍は銃剣突撃を行い、敗れ去ります。
一木清直大佐は自決しました。

この後、続々と日本兵は送り込まれ、
ガダルカナル島で死闘を繰り広げることになります。
制空権も制海権も確保できない中で、
ガダルカナル島の兵士たちは孤立し、
物資の不足に悩み、飢えていきます。

掲載日:2015年8月18日(火)

 

満州からの引揚体験を語り部から聞く

昨日、東京新宿の平和祈念展示資料館で語り部お話し会があり、
満州からの引揚体験を聞くことができました。
当時6歳の語り部は終戦を迎えたあと、匪賊の夜襲を受けて母が殺され、自らも負傷し、
それから祖父とともに大変な苦労をして日本に引き揚げてきた話を聞きました。
父は終戦直前に根こそぎ動員で出征し、そのまま戦死されたようでした。

語り部にとっては故郷は満州で日本本土は見知らぬ土地であり、
引揚といっても日本本土に帰るという感慨はなかったそうですが、
日本に引揚といってもいろいろな立場の人がいたのだと思いました。

満州では今まで日本人が偉くて現地人を使っていたわけですが、
日本敗戦後立場が逆転し、日本人は現地人に襲われる立場となりました。
日本への逃避行、逃げる間の食糧としてサツマイモやゴボウなどを生で食べた話など、
つらさ大変さが胸に刺さりました。
その苦労を踏まえて戦争は絶対にしてはいけないというメッセージで、
本当にその通りだと思います。

大変貴重な話を聞くことができました。
平和祈念展示資料館では毎月1回語り部お話し会を開いていて、
夏休み期間はさらに何回か語り部お話し会を開いています。

参考URL:平和祈念展示資料館

掲載日:2015年8月17日(月)

 

語り部から広島原爆体験を聞く

昨日、埼玉県平和資料館で語り部から広島原爆体験を聞く催しが開かれ、行ってきました。
会場は超満員で、立ち見がたくさん出ていました。
駐車場も満杯で遠くの臨時駐車場に止めたのですが、
埼玉県平和資料館があんなにもにぎわっているのを見たのは初めてです。
子どもの姿、大人の姿、若い人、お年寄り、全世代の人がいたと思います。

そして、語り部の原爆体験が始まりました。
語り部は当時は16歳の女学生で、病院で医療技術の勉強をしており、広島にいて被爆しました。
病院は爆心地から離れたところにあったようで、語り部は命が助かりました。
そして、病院で多数の被爆者の治療にあたることになります。
ガラスの破片が眼や体に突き刺さっているわけですが、
ピンセットではとれず、ペンチで取らざるをえなかったそうです。
皆、皮膚が焼けただれ、つける医薬品どころか洗い流す水もない。
むしろを敷いて被爆者たちを寝かせ、むしろもなければ土の上という惨状でした。

初めて生の語り部の広島原爆の実態を拝聴し、
本当に聞いてよかったと思いました。
今まで写真や本、テレビで読んだり聞いたりした話よりずっとリアルで
身に迫ってきました。

広島の原爆を生き残っても、ああよかったと気持ちがなるわけではなく、
どうして自分は生き残ってしまったんだろうという気持ちになるそうで、
広島原爆体験を語るために自分が生かされている、
死んでいった被爆者たちに応援されている気持ちで、原爆を語っているということで、
その強い思いに感動しました。
自分も精一杯生き、できるかぎりの仕事をしたいと思いました。

語り部はどんどん亡くなっていくと思いますが、
聞く機会があればぜひ聞いてみてください。
生きる力を得ることができると思います。

掲載日:2015年8月16日(日)

 

70年目の終戦記念日を迎えて

今日、70年目の終戦記念日を迎えました。
毎年終戦記念日は厳粛な気持ちになるのですが、
今年は特に、万感迫るものがあります。

先日、埼玉県平和資料館で熊谷空襲の体験談を語り部から聞いたとき、
質疑応答の際に来場者から出た話の中で、
家族が戦争から帰ってきても、心に深い傷を負っていて、
もう戦争前の人とは別の人になってしまったという話を聞きました。
戦争はその人の心に深い傷を負わせ、
仮に体が大丈夫でも、
心まで大丈夫とはいかず、
後々まで影響を与えるものであるということを考えました。

多くの戦争体験者の体験を聞きましたが、
それぞれに心に深く刺さっているようで、
簡単に癒えるものではないのだろうと思います。

これからの日本を考えたとき、
太平洋戦争で味わった庶民たちの体の傷、心の傷を考えると、
理由のいかんを問わず、
戦争は避けなければならないし、
戦争につながるような諸問題の解決に努力していかなければならないと
思います。

掲載日:2015年8月15日(土)

 

NHKスペシャル「女たちの太平洋戦争 〜従軍看護婦・激戦地の記録〜」を見る

昨日放送されたNHKスペシャル「女たちの太平洋戦争 〜従軍看護婦・激戦地の記録〜」を見ました。
従軍した看護婦たちについて今まであまり触れられたことがなかったように思うので、
とても興味を持って番組を見ました。

看護婦たちも軍の命令下にあり、捕虜となることは禁止されていました。
看護婦でさえも、捕虜となるよりは自決せよと教えられ、彼女たちも自決する覚悟でいました。
病院に送られてきても、動けるものは戦地に帰されました。
失明したような人でさえも戦地に帰されたということで、
当時の戦場の鬼気迫る様子が伝わってきました。

死体は火葬に付されましたが、
戦争も押し迫ってくると、全身を火葬はできず、
腕の一部や指の一部を火葬にして遺骨とすることが行われます。
そんな切除を行なえと彼女たちは命じられましたが、
とてもできなかったと言います。
情が移っているのでできなかったのです。

そして、動けないものには死が与えられました。
看護婦たちもその死を手助けする役割を与えられますが、
患者がさらに死ぬために苦しむ姿を見ることはできません。
人を助ける医療現場の人間が患者を殺さねばならないとは鬼のような話です。

70年後の彼女たちは元気で、当時の状況をありありと語ってくれました。
大変貴重な証言であり、
当時の状況をもっと語ってほしいと思います。
そのことは、今の日本にとって大変重要な証言だと思います。

掲載日:2015年8月14日(金)

 

鈴木貫太郎記念館を訪れる

先日、千葉県野田市にある鈴木貫太郎記念館を訪れました。
鈴木貫太郎は太平洋戦争終戦時の内閣総理大臣です。
映画「日本のいちばん長い日」でも重要な登場人物として描かれますが、
日本の終戦に尽力した人物です。

鈴木貫太郎記念館は混んでいて、鈴木貫太郎という人物への関心の高さを感じました。
鈴木自身の筆による掛け軸や手紙などが展示されていて、
その筆致からは堂々たる精神が感じられました。

私は鈴木貫太郎という人物に強い関心を持ちました。
日本の終戦をまとめあげた人物とはどのようなものだったのだろうかと思いました。
二・二六事件では昭和天皇の侍従長として命を狙われ、
弾丸を撃ち込まれますが、危機一髪助かっています。
その運の強さもすごいと思いますが、
それでもなお終戦という大変困難な時代の内閣総理大臣を引き受けたことを
すごいと思います。
自分の責務から逃げない、あくまでやりぬく精神を見習いたいと思います。

参考URL:鈴木貫太郎記念館

掲載日:2015年8月13日(木)

 

NHKスペシャル「あの日、僕らは戦場で 〜少年兵の告白〜」を見る

昨日放送されたNHKスペシャル「あの日、僕らは戦場で 〜少年兵の告白〜」を見ました。
少年兵については、具体的な詳しい話を聞いたことがなく、
今回初めて少年兵の詳細を知ることができました。
70年ぶりの真実が明かされたようで、大変興味深く番組を見ました。

印象深かったのは、アメリカ軍の基地を民間人の子どもを装って偵察に行く場面で、
少年兵は大人の命令でアメリカ軍の偵察に行かされます。
そしてチョコレートを米兵からもらいますが、
夜、その基地を奇襲することになった際、その米兵たちを攻撃することになります。
その胸の苦しみが伝わってきました。
子どもが戦争に利用される現実、民間人を装って偵察するなど正当ではない戦闘方法がまかりとっていたこと、
胸が痛く思いました。

戦後70年も経って、新事実など何もないように思っていましたが、
70年経ったからこそ出てくる新事実がたくさんあるように思いました。
今まで語れなかったこと、あともうすぐで死んでしまうかもしれないから今語ろう、
そういう決心をされて今語りだしている人をとても誇りに思います。
語りにくいことだからこそ、ぜひ語ってほしいと思います。

掲載日:2015年8月12日(水)

 

NHKスペシャル「特攻 〜なぜ拡大したのか〜」を見る

8月8日に放送されたNHKスペシャル「特攻 〜なぜ拡大したのか〜」を見ました。
特攻については、くりかえし語られてきましたが、
新事実も明らかになり、注目してこの番組を見ました。

私が注目したのは、特攻の戦果について水増しが行なわれていたということ。
とある親しい戦友が特攻機に乗って突如急降下して海面に突入したが、
いくら見ても何に突入したのか分からない。突入した艦船が見当たらない。
海面に突入したとも言えなかったその人は、
「敵の輸送船らしきものに突入した」
と報告したそうです。
特攻で出撃して、何もない海面にただ突入したとはとても言えなかったという
その気持ちは痛いほど伝わってきました。
戦後70年、今までずっと隠してきたことだったかもしれませんが、
70年を経て、やっと告白されたその新事実を大変興味深く思うと同時に、
その告白した勇気に拍手を送りたいと思いました。

また、戦果を取りまとめる参謀たちは、
その戦果を水増しし、報告された戦果よりも多く計上して、さらに上に報告したとのことでした。
戦果が水増しされたことで、特攻作戦が成功していると考えた上層部は
さらなる特攻を指令することになっていきます。
アメリカ軍側が確認している被害と、
日本軍側が考えていた戦果とでは、大きな開きが広がっていくことになりました。

最初に特攻が行われたのは、レイテ沖海戦時のフィリピンにおいてでしたが、
予想外の戦果を挙げたことで、
特攻は繰り返し行われることになりました。
海軍の戦果に衝撃を受けた陸軍も、特攻作戦を開始することになります。
そして、絶え間ない特攻が繰り広げられていくことになりました。

掲載日:2015年8月11日(火)

 

映画「日本のいちばん長い日」を観る

8月8日に封切られた映画「日本のいちばん長い日」を観ました。
大変おもしろく映画を見ました。

陸軍大臣阿南惟幾(あなみ・これちか)を主人公にして、
太平洋戦争終戦までの決断の模様を描いていきます。
話には何度も聞いていた話ですが、あらためて映像で当時の再現を見ることができ、
当時の様子や心情を表現していたように思います。

私は原爆投下やソ連参戦が起こる前に太平洋戦争が終わればと何度も思ってきましたが、
陸軍内部の暴発を考えると、なかなか終戦させることができなかったのだろうということを
考えさせられました。
軍が暴発し、政府が倒されたとき、戦争を終わらせる中枢機関がなくなり、
戦争は終わらなくなってしまう・・・・・
そのことを主人公阿南惟幾も鈴木貫太郎首相も、その他閣僚も、皆強く意識していたことを思い、
戦争を終わらせることがとても難しかったことをあらためて思い知らされました。

終戦の裏舞台をリアルに描いている作品だったと思います。
大変おもしろく鑑賞しました。
観客のため息が漏れたり、笑いがこぼれたり、
観客一人一人が大変に物語に引き込まれ、熱中していたことを肌で感じました。

参考URL:「日本のいちばん長い日」公式サイト

掲載日:2015年8月10日(月)

 

人類最後の被爆地へ 長崎に原爆が投下された日

今日は長崎に原爆が投下された日です。
1945年8月6日の広島に続いて、
8月9日、2発目の原爆が長崎に投下されました。

大学生時代、私は長崎を訪れ、平和公園や長崎原爆資料館を訪れました。
その長崎で強調されていたのは、人類最後の被爆地が長崎であるように、ということでした。
今日現在、確かに人類最後の核兵器の被爆地は長崎です。
核実験は繰り返し行われ、ビキニ水爆実験での第五福竜丸の被爆や
福島での原発事故など、
核にまつわる災害は後を絶たないのが現実ですが、
核兵器で攻撃された被爆地は長崎が最後です。

長崎は坂の街ですが、
爆心地に向かってすり鉢状になっている街で、
原爆はその谷の底に投下されました。
そんなところに原爆が投下されたら、
その被害は、平野に広がる街に比べてもっとひどいものになるだろうと想像されましたが、
もっとも被害が最高になるように狙われたのも長崎だったのだろうと思います。

今後も被爆地は長崎が最後であることを祈りたいと思います。

掲載日:2015年8月9日(日)

 

ソ連、日本に宣戦布告

1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦布告、満州へソ連軍が侵攻します。
このソ連軍の侵攻により、シベリア抑留が発生します。

今日は少し体調が悪く、ふとんの中で寝ていたのですが、
ふとんに寝ながら、今日はソ連軍侵攻の日だと思い出していました。
そしてシベリアに抑留された兵士たち日本人たちの苦労を思いました。
自分がもしシベリア抑留送りだったら、すぐに死んでしまっただろうなと思いながら、
ふとんの中でシベリアの短い夏を思っていました。

この一週間後に戦争は終わりますが、
もっと早く戦争が終わればと思うと同時に、
一週間後に戦争が終わってよかったと思います。
もしそこで戦争が終わらなければ、
さらにソ連軍は北海道に占領し、日本は北海道を失っていたかもしれません。
朝鮮半島はすべてソ連に占領されて、朝鮮半島全体が北朝鮮になっていたかもしれません。

シベリアに抑留された人の苦労、満州からの引揚日本人の苦労を思います。

掲載日:2015年8月8日(土)

 

原爆の図丸木美術館のとうろう流しに参加する

昨日は広島原爆の日でした。いつもながらに暑い快晴となりました。
8:15にNHKの平和式典中継を見ながら、私も黙祷を捧げました。
この日は埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館でイベントが行われ、
平和を祈るとうろう流しが行われました。私も参加してきました。

この美術館で原爆の図を見学するのは2回目になります。
女性も子どもも丸裸で、全身が燃えてただれて、
抱き合う親子の姿など、
当時の広島の光景もこのようなものだっただろうと想像しました。

お笑い芸人のおしどりマコ&ケンのお二人もゲスト出演されていて、講演を聞きました。
芸人である二人が独自に福島原発事故を取材するようになり、
最初は個人で始めた取材でしたが、徐々に広がって大きな声になっていった姿を見て、
自分も励まされました。
一市民の活動も継続していけば力になるということを感じました。

とうろう流しはたくさんの子どもたちが参加していました。
原爆という問題に対してとうろうを流すことしかできないのが現実かもしれませんが、
一市民として問題を探求し、声を出していくことを諦めない強さを学んだように思います。

参考URL:原爆の図丸木美術館

掲載日:2015年8月7日(金)

 

平和祈念展示資料館で引揚体験者の語り部のお話を聞く
そして、川崎市平和館を訪れる

昨日は、新宿の平和祈念展示資料館で引揚体験者の語り部のお話を聞きました。
語り部の方は昭和5年生まれで、14歳のときに満蒙開拓青少年義勇軍に参加して、
終戦直前に満州に渡り、終戦を迎えることになります。
終戦の混乱の中で苦労され、16歳で帰ってきて、晴れて日本の地を踏むことになります。

語り部の方は少年兵に志願したかったそうですが、
体が小さいために体格検査で不合格となり、
それならば、と満蒙開拓青少年義勇軍に志願しました。
お母さんは反対されたそうです。
そのお母さんの反対を振り切って、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊したということでした。
昭和19年という太平洋戦争末期の情勢で、お母さんが反対されたのはよく分かる心情です。
その反対を振り切って参加したというのだから、強い意志を感じました。
満州で多くの仲間や友人が亡くなられたということでした。

強い意志と覚悟で親元を離れて一人遠く外国に渡るという
立派な志を持つ若者が多くいたことは感慨深いです。
とても勉強になりました。


それから、新宿から武蔵小杉に足を伸ばし、
川崎市平和館を訪れました。
こちらの展示もまた大変興味深いものがありました。

平和とは単に暴力がない状況というわけではない、
貧困、差別、環境破壊なども広い意味での平和であり、
貧困などを撲滅していくことが
平和につながるという主張はもっともだと思いました。

川崎市は太平洋戦争時代、多くの空襲を受けており、
太平洋戦争に関する展示が主でしたが、
戦後の戦争に関する展示も充実しており、
あらためて平和について考えることができました。

参考URL:
平和祈念展示資料館
川崎市平和館

掲載日:2015年8月6日(木)

 

ガダルカナル島にアメリカ軍上陸

1942年8月7日、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸しました。
7月6日に日本軍が上陸し、飛行場の建設を始めていましたが、
飛行場が完成間近になった頃、アメリカ軍の海兵隊が上陸、
飛行場は占領されました。
日本軍は設営隊のみで守備兵力はほとんどいなかったため、
1日でガダルカナル島は占領されました。

ここから、アメリカ軍の本格的な反攻が始まります。
ミッドウェー海戦の勝利以来、アメリカ軍は戦力を蓄えていました。
そして、日本軍がガダルカナル島という遠距離の僻地に足を伸ばしたところを狙い、反攻を開始しました。
反攻を開始する地点としては、非常に的確で最上のポイントだったと思います。
このアメリカ軍の攻撃に対し、日本は反撃に出ますが、
ガダルカナル島はあまりにも遠く、
日本軍は疲弊し損耗を多く出していきます。

8月といえば終戦の月ですが、
ガダルカナルの地獄が始まった月でもあります。
真夏のある夏の日、アメリカ軍の反撃は始まりました。
ミッドウェーで大敗したとはいえ、まだまだ日本軍には力があり、
日本軍部も余裕を感じていた頃だと思います。
その慢心が痛い目を見ることになります。

遠くガダルカナルの空を思います。

掲載日:2015年8月5日(水)

 

アウシュビッツ平和博物館を訪れる

昨日、私は福島県白河市にあるアウシュビッツ平和博物館を訪れました。
この博物館は初めて車を買った頃、およそ8年前に一度訪れたことがあり、
昨日、8年ぶりに博物館を訪れました。
博物館はよい意味で何も変わっておらず、昔のままで、
とても懐かしく思われ、昨日も来たかのような錯覚を感じました。

印象的だったのは120センチの棒というもので、
高さ120センチに棒が渡してあり、
そこを通って120センチの高さに達しない子どもは
容赦なくガス室に送られました。
子どもたちはおよそそういう棒だろうということを察して、
必死に首を伸ばして120センチの棒に達しようと努力したということでした。
博物館では、そんな棒のレプリカが展示されており、
その棒を通った子どもたちの気持ちを想像しました。

特別展では、プリーモ・レ―ヴィという作家について特集していました。
レ―ヴィはアウシュビッツを生き残った作家です。
アウシュビッツ収容所で囚人として生きている間、
生きてこの収容所を脱して、ここで起こったことを文章に書こうと心に誓っていたそうで、
その一念でアウシュビッツを生き残ったということでした。
その強い精神力に脱帽すると同時に、
私もそういう精神力を持ちたいと思いました。

大変おもしろい博物館です。
ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

参考URL:アウシュビッツ平和博物館

掲載日:2015年8月4日(火)

 

日本兵捕虜たちの葛藤 NHKスペシャル「密室の戦争」を見て

昨夜、NHKスペシャル「密室の戦争」が放送されました。
連合軍の捕虜となった日本兵が、オーストラリア兵に尋問された記録が残されており、
そのなまなましい記録を聞き、大変興味深くおもしろく思いました。
戦後70年も経って、新資料が出てくるということに驚きを感じますし、
戦後70年経ったからこそやっと公開できたというのもあると思います。

連合軍の捕虜となった日本兵は、連合軍への協力を求められます。
例えば英語ができる日本兵であれば、翻訳という形で連合軍への協力を求められました。
「日本を早く負かすことが日本国民のためにもなる」
と尋問官は優しい言葉で説得につとめます。
日本兵は葛藤します。
半年にわたる説得を通して、日本兵は連合軍への協力を承諾します。
生きて日本に帰れば卑怯者と言われる危険を理解して協力します。

また、戦争犯罪についても日本兵は尋問されます。
また別の日本兵は、フィリピンで殺したゲリラや、オーストラリア人を殺したことについて、
鋭く尋問を受けます。
やはり日本兵は葛藤し、知らない、命令だったなどと返答します。

捕虜となった日本兵たちの気持ちがにじみ出る肉声の録音は
当時にタイムスリップするかのようで、
日本兵たちの気持ちがダイレクトに伝わってきました。
その胸の苦しさが伝わってきたのです。

連合軍に協力した日本兵や
命令で殺人を犯さざるをえなかった日本兵。
そういった日本兵たちを責めることはできないと思います。
日本兵たちは戦後、戦争体験を語ることはありませんでした。
戦争体験を語る語らないという葛藤もあったとは思いますが、
日本兵たちの胸の苦しみを感じました。

掲載日:2015年8月3日(月)

 

金持ちの防空壕、貧乏人の防空壕 〜埼玉県平和資料館で熊谷空襲の体験談を聞く〜

今日は埼玉県平和資料館で行われた熊谷空襲の体験談を聞くというイベントに参加してきました。
先着160名ということでしたが、講堂はほぼ満席でした。
ほぼ満席になるくらいに多数の人が集まるとは意外で、
太平洋戦争にものすごく多くの人が関心を持っていることが分かりました。
子どもの姿も多く見られ、
夏休みの自由研究の題材に聞きに来たという感じなのでしょうか。

熊谷空襲は1945年8月14日の夜に埼玉県熊谷市の市街地を狙って行われた空襲で、
終戦の前日に行われた空襲でした。
もし戦争が1日早く終わっていれば遭うことのない空襲でした。
街は焼夷弾で焼かれ、焼け野原となり、
中心を流れる川は熱くなり、多くの人が川で死んだということでした。

私が非常に興味深く思ったのは、
金持ちが作った防空壕と貧乏人が作った防空壕では差があるというお話でした。
金持ちが作った防空壕はがっしりしていて頑丈な作りで、
貧乏人が作った防空壕は貧相な作りということなわけですが、
金持ちは防空壕を信頼してずっと防空壕にこもっていたがゆえに
焼夷弾を食らって死に、
貧乏人は防空壕が信頼できないがゆえに早く逃げ出したので、
命が助かったということでした。
防空壕にも貧富の差があるのかと
当時の状況を大変興味深く思い、また、現実を思い知ったのでした。

語り部の女性は命からがら熊谷の市街を逃げ、
最後には逃げ切れなくなり、家族で手を取り合って
「ここでみんなで一緒に死のうね」
と覚悟を決めたそうですが、
幸運にも焼夷弾はそこに落ちることはなく、
助かったということでした。
女性のお父さんは残念ながら空襲で焼夷弾の直撃を受けて亡くなってしまったそうでした。

講演後の質疑応答も熱いものがあり、
集まった人たちのエネルギーを感じました。
大変おもしろく興味深い講演会でした。

参考URL:埼玉県平和資料館

掲載日:2015年8月2日(日)

 

太平洋戦争終戦の月になりました

8月に入りました。
太平洋戦争終戦の8月です。
広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦、そして終戦と
激動の8月になります。

今年は終戦70周年ですが、
あちこちで平和を祈念する式典が開かれたり、
テレビでも終戦に関する特番やドラマが組まれたりしています。
昨晩は映画「永遠のゼロ」が日本テレビ系で放送されましたが、
NHKスペシャルもいろいろな特番を放送する予定のようです。

この8月、そういった戦争に関するイベントに参加したり、
テレビ番組を見たりしてみてはいかがでしょうか。
私もこの8月は大いにいろいろなイベントに参加したり、
テレビ番組を見る予定です。
そのことは、このブログでも報告できたらと思います。

掲載日:2015年8月1日(土)

 



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