ブログ 2015年7月

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太平洋戦争の生存者から学ぶこと

今日で7月も終わりですね。
明日から8月。終戦の季節です。
太平洋戦争の生存者の言葉を聞く機会も増えると思います。

太平洋戦争の生存者にお話を伺ったときにいつも思うのは、
非常に元気で当時のことをありありとお話しされるということで、
太平洋戦争という大変困難な時代を生き抜いたことは、
精神的に強く、人生を鍛えられたのだろうと思います。
その若き日を戦争という時代をすごさねばならなかったわけですが、
自分の若き日、同年代の頃の日々を思い出したときに、
自分は他人に語れるような日々を過ごしていただろうかと、
反省させられます。

太平洋戦争の生存者から学ぶことは、
今日を一生懸命に生きるということです。
今日を一生懸命に生き、最大限の努力をする、
その日々は積み重なり、
後々になって大きな精神的な支えになり、
宝になるのだと思います。
さらに後世の人たちに対して、語ることができる、誇ることができる、
人生になるのだろうと思います。

掲載日:2015年7月31日(金)

 

登戸研究所を訪ねる

今日、私は登戸研究所を訪れました。
登戸研究所とは、日本陸軍が作った秘密研究所で、
風船爆弾などの秘密兵器や、スパイ用の道具、
敵国を混乱させるための偽札などを作っていました。
今は明治大学のものになっており、
「明治大学平和教育登戸研究所資料館」という名前の資料館になっています。

大変興味深く展示を見学しました。
風船爆弾は話にはよく聞く話ですが、
ここで開発されていたのかと感慨深く思いました。
非常に期待を持って開発されていたようで、
和紙の生産地として埼玉県の小川町が有名ですが、
そんな小川町の和紙などが使われていたそうで、
意外なものが意外な場所でつながるということを思いました。

スパイ用のカメラなど、どういったところで作られていたのかということですが、
この登戸研究所で開発、製作されていました。
細菌兵器なども作られ、
中国を混乱させるために中国紙幣の偽札も製作されていました。
これら「秘密戦」は、
戦争の表舞台には出てこない話ですが、
重要であり、かつ興味深く思い、
資料館として保存している明治大学の仕事を評価しました。

私が興味深く思ったのは、
戦後、登戸研究所が脚光を浴びるようになったのは
とある高校生たちの研究がきっかけだったということで、
文化祭で登戸研究所のことを発表したのがきっかけで、
登戸研究所経験者たちが重い口を開くようになり、
登戸研究所の話が脚光を浴びるようになったということでした。
私もまたそんな光の当たっていなかったところに光を当てるような
そんな研究がしたいと励まされました。

参考URL:明治大学平和教育登戸研究所資料館

掲載日:2015年7月30日(木)

 

キスカ島撤収成功

1943年7月29日、キスカ島の撤収作戦が見事に成功します。
キスカ島守備隊将兵は犠牲者を出すことなく、全員が無事に撤収しました。

5月29日に同じアリューシャン諸島のアッツ島が玉砕して以来、
キスカ島はアメリカ軍の重層な包囲網に包まれ、絶体絶命となっていました。
アッツ島と同じ運命をたどるかに思えたとき、
キスカ島の救出作戦が計画されます。

霧が濃い日に、霧に紛れて艦隊が島に接近し、守備隊将兵を乗せて撤収するという作戦でしたが、
霧がいつまで続くのか気象予報を正確にすることが難しく、
艦隊は出撃しては諦めて撤収するをくりかえします。
この行動に周囲は苛立ち、突入の督促が行われることになります。
しかし、艦隊は機をうかがっていました。
そして7月29日、ついに撤収を成功させることになります。

日本軍の作戦行動の中で、非常に貴重な成功だと思います。
絶体絶命となったときにこのように撤収するという作戦が行われれば、
軍にとっても将兵にとってもプラスであったと思いますが、
これ以降、戦局は悪くなり、
撤収作戦は実行できずに、取り残されて玉砕をくりかえしていくことになります。

掲載日:2015年7月29日(水)

 

予科練平和記念館を訪れる

今日は茨城県稲敷郡阿見町にある予科練平和記念館に行ってきました。
霞ヶ浦のほとりにある記念館で、
霞ヶ浦航空隊の跡地にあります。

車を買ったころ、およそ8年くらい前に霞ヶ浦を訪れました。
海軍航空隊の育成地といえば霞ヶ浦航空隊。
その霞ヶ浦を見たいと思ったのです。
当時は予科練平和記念館はなく、
霞ヶ浦の湖面を眺めて帰ってきたのを覚えています。
その後、予科練平和記念館ができて、
今日やっと訪れることができました。
阿見町(あみまち)という町にあるのですが、
霞ヶ浦海軍航空隊ができることで育った町であることを知りました。

もっとも気になったのは特攻の歴史で、
最後に特攻の展示がありました。
予科練の練習生たちもまた、
赤トンボと呼ばれる練習機で、
特攻に駆り出されましたが、
特攻の歴史については、
何度見ても哀しみを覚えます。
戦争が避けられないもの、どうしてもやらなければならないものだとしても、
生還をまったく考えることができない特攻作戦は、
戦争の外道と思わざるをえません。

予科練平和記念館の隣には「雄翔館」という資料館があり、
こちらも見学しました。
特攻で亡くなった予科練出身者の航空兵の遺書などが展示されていました。
遺書の力強い筆跡からは、
優れた人材であることが感じ取られました。
そのような人材が戦争のさらに特攻という攻撃で亡くなったことについて
あらためて憤りと哀しみを感じました。

大変興味深く勉強になる場所でした。
参考URL:予科練平和記念館

掲載日:2015年7月28日(火)

 

ムッソリーニ逮捕される

1943年7月25日、イタリアでムッソリーニが逮捕され、
後任にパドリオ元帥が指名されます。
パドリオ政権は連合国との和平交渉を進め、
9月8日、イタリアは連合国に無条件降伏することになります。

1943年7月、日本は中部ソロモンを巡ってアメリカと激しい戦いを繰り広げていました。
その一方で、アメリカをはじめとする連合国はまずイタリアの脱落を狙います。
1942年11月に北アフリカに上陸した米英連合軍は、
ガダルカナル島での死闘を繰り広げる裏で北アフリカでの戦いを進め、
1943年5月に北アフリカを奪還、
その軍をイタリア本土の南の島、シシリー島に進めます。
このとき、イタリア本土ではムッソリーニ政権に動揺が広がります。
このままイタリアは負けるのではないかと思われたとき、
ムッソリーニは逮捕されることになります。

日本はガダルカナル島を失い、敗勢にありましたが、
まだまだ余力がありました。
ドイツもソ連軍に押されていましたが、力が残っていました。
そんなとき、三国同盟の一角であるイタリアが狙われ、
イタリアは無条件降伏し、脱落しました。

早々に脱落したイタリアを日本もドイツも小馬鹿にしたと思われますが、
早く戦争が終わり、自由主義諸国に占領されたイタリア国民は
まだ幸せだったかもしれません。
この後、アメリカの矛先はドイツに向かい、
ドイツ陥落後、日本に全勢力が向かいます。
その勢いと痛みを知るのはまだまだ先のこととなります。

掲載日:2015年7月27日(月)

 

ポツダム宣言発表される

1945年7月26日、ポツダム宣言が発表されました。
太平洋戦争はついに終わりを迎えようとしています。
あがき続ける日本に終止符を打つため、
連合国側は最後に日本に降伏する機会を与えます。
米英中の三国の連名により、
ポツダム宣言は発表されました。

しかし、日本政府はこれを黙殺することになります。
返事や声明を一切出さず、無視したわけです。

私が思うに、日本はこのポツダム宣言を受け入れるべきだったと思います。
それもただちにポツダム宣言受け入れに向けて検討に入るべきでした。
日本政府はこれを当初黙殺しましたが、
その後2回の原爆投下とソ連参戦を経て、
日本はやっとポツダム宣言受け入れに向けて検討に入ることになりました。
もしポツダム宣言を7月26日に受け入れるか、受け入れの検討を始めて、
7月中に戦争を終結させていれば、
原爆投下もなく、ソ連参戦もなく、
もしかしたら北方領土問題も存在せず、
朝鮮半島の南北分割も起こらず、
北朝鮮という国も生まれなかったかもしれません。

たった数日で運命は大きく変わりました。
決断の難しさを感じます。

掲載日:2015年7月26日(日)

 

ヒトラー暗殺未遂事件起こる

1944年7月20日、ドイツでヒトラー暗殺未遂事件が起きます。
シュタウフェンベルク大佐を中心とするドイツ国防軍の一部の人間たちは、
ヒトラー暗殺を計画し、
ヒトラーが作戦会議をしているときに爆弾をしかけ、その爆弾を爆発させ、
ヒトラーを殺害しようとします。
爆弾は見事に爆発し、作戦は成功したかのように思われましたが、
強運なヒトラーは生き延び、
この暗殺計画は未遂に終わります。

もしヒトラー暗殺が成功していれば、
日本に与えた影響も多大だったでしょう。
おそらくドイツはヒトラー死後、早期に講和したと思われ、
日本の降伏もまた早まったものと思われます。
ここでヒトラーの暗殺が成功していれば、
日本の運命も大きく動いたと思いますが、
実際はそうなることはありませんでした。

ドイツもまた連合軍に攻め込まれ勝利の兆しはなくなっていましたが、
1945年5月まで約1年、戦争は続くことになります。
日本の戦争もまだまだ続きます。

掲載日:2015年7月25日(土)

 

人生の困難を生き抜く 太平洋戦争を生きた兵士たちの困難から学ぶ

夏になると、3年前の出来事を思い出します。
3年前の夏、ちょうど今頃、私は精神的に病み、体調を崩して仕事を休みました。
それから長く休職することになりました。

休職中の闘病生活は長く苦しく思われました。
そんなときに思い出したのは太平洋戦争で戦った兵士たちのことです。
太平洋戦争をテーマに小説を書きたいと思っていた私は、
戦争を生きた将兵たちの姿を脳裏に想い描いていました。
いつか小説に書くぞと思いながら、
太平洋戦争を想像し、太平洋戦争を戦う兵士たちに思いを馳せながら、
自分の困難を重ね合わせて生きていました。

自分が主に想像したのはガダルカナル島を戦った兵士たちのことで、
ガダルカナル島で一進一退の攻防を続ける日本軍の苦しさ、
飢えとアメリカ軍の猛威に苦しむ日本軍の将兵の苦労を思いました。
小説を書きたいと思ったことをきっかけとして、
私の苦しみと太平洋戦争はリンクしていたと思います。

長い闘病生活の中で、何度も困難が訪れましたが、
そんなときに太平洋戦争を生きた兵士たちのことを思い出していました。
そういった想像は自分に力を与えてくれたように思います。

夏の盛りについに耐えきれずに私は倒れてしまいましたが、
太平洋戦争を生きた兵士たちあるいは市民たちに比べれば
あまりにも大したことはない苦労ではあるのですが、
自分の心の支えになってきたように思います。

掲載日:2015年7月24日(金)

 

横井庄一さんの戦い 米軍、グアム島に上陸

横井庄一さんは終戦を知らず、終戦後28年間、グアム島の密林の中で
日本兵として生活を続けました。
そして、1972年1月24日、地元の漁師に保護されることになります。

1944年7月21日、アメリカ軍がグアム島に上陸しました。
7月24日に日本軍のグアム島守備隊は総攻撃を行うも、各所で撃破され、
密林での持久戦に移行していきました。
そして、8月11日に最後の総攻撃を行い、日本軍の組織的抵抗は終わりました。
その後も残存の日本兵たちは抵抗を続け、
最後の日本兵が降伏したのは終戦後の1945年9月4日でした。
しかし、横井さんは終戦を知らず、それから28年間、密林の中で生活を続けることになります。

横井さんは日本に帰ってきたとき、
「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」
と言っていますが、
生き抜くための精神とは、こういうものなのだろうかと思います。
何かの役に立ちたいという信念で28年間を生き抜いたものと想像しますが、
横井さんの生き方から、生き抜く力とは何かということを考えさせられます。
横井さんのような人材が終戦後すぐに日本に帰ってきて、28年間働いたとするならば、
存分にその力を発揮されたのではないかと想像すると
戦前において日本が教えたことは何だったのかということをあらためて考えます。

誰かの役に立ちたいという思いが人を生きさせるということを感じます。

掲載日:2015年7月23日(木)

 

終戦工作としてソ連政府に近衛元首相を特使として派遣しようとする

1945年7月17日、終戦工作としてソ連政府に
近衛文麿元首相を特使として派遣しようと計画しますが、
翌18日、ソ連政府はこれを拒否します。

日本政府は終戦を模索していて、
日ソ中立条約に基づき中立関係にあったソ連政府に対して、
終戦への仲介を依頼しようと考えます。
中立条約はありながらも、
激しく敵対していたソ連に対して、
日本は真剣に戦争和平の仲介を依頼できると考えていました。

日本の世界情勢の判断の甘さを思い知らされます。
溺れる者わらをもつかむという状態だったのでしょうか。
ソ連に対して終戦の仲介を依頼できるとは到底思えないのですが、
当時の日本政府はそれができると真剣に考えていました。
結果として時間ばかりを浪費し、
原爆投下、ソ連参戦、そして終戦へと向かっていきます。

世界情勢を正確に判断する力が求められると思います。

掲載日:2015年7月21日(火)

 

救援の来ない島で

太平洋の島々のいたるところで起きた玉砕。
救援の来ない島で、
兵士たちはどのようなことを考え、どのようなことを感じたのか、
亡くなった兵士たちの気持ちを想像します。

それでも生きるという選択肢があったらどんなによかっただろうかと思います。
死なねばならない、死ぬしかない、
そのように教えられ、言われた中で、
生きていくことはどんなに辛かったことでしょうか。

例え明日死ぬのだとしても、今日を生き抜こうと決心することは
とても辛いことだったと思いますが、
そのような決心は美しかったと思います。
それでも今日を生き抜き、明日も生き抜こうと
決心して努力した人たちの姿を思い浮かべ、
自分も今日を生き抜きたいと思います。

掲載日:2015年7月20日(月)

 

シベリア抑留体験者の体験談を聞く 〜平和祈念展示資料館の語り部お話し会に参加する〜

今日は東京新宿にある平和祈念展示資料館の語り部お話し会に参加し、
シベリア抑留を体験した人の話を聞きました。
大変興味深く参考になり、
人生を生きる勇気をもらったように思いました。

語り部お話し会は第3日曜日に開催されていて、
夏休み中は特別期間で、数多くの語り部お話し会やイベントが行われています。
元兵士、シベリア抑留経験者、海外からの引揚経験者の
体験談を聞くことができます。
今日のお話し会は大盛況で、集まった聴衆は100人ぐらいはいたのではないかと思います。
若い人も多くいて、関心の高さを感じました。

今日の語り部は、シベリア抑留の経験者で
15歳のときに青年開拓団として満州に渡り、ソ連侵攻を受け、ソ連軍の捕虜になり、
シベリアに抑留されました。
印象的だったのは、
ソ連内で列車で移動する時、夜の空に月が浮かんでいて、
その月が母の顔に見え、母が自分を励ましているように見えたというエピソード。
母が「つらいこともあるだろうけど生きてがんばれ」と言っているように見え、
「生きて日本に帰る」という思いをあらためて強くされたということでした。
日本へ帰りたいという強い気持ちが生きる力になり、
シベリア抑留という困難な生活を支えたのだと思います。
そして、晴れて日本へ帰ることができる日を迎えたのでした。

その話は大変おもしろく、 引き込まれ、熱中しました。
それは聴衆全員がそうだったようで、
途中で立ち上がって帰る人は一人としておらず、
全員が約1時間の講演に真剣に聞き入っていたのでした。
生きる勇気をもらったように思いました。
とても勉強になりました。

参考URL:平和祈念展示資料館

掲載日:2015年7月19日(日)

 

東条英機首相退陣

1944年7月18日、東条英機内閣が総辞職、東条首相が退陣しました。
太平洋戦争開戦以来、東条英機は首相として戦争を指導してきましたが、
相次ぐ敗北についてその責任を問う声が政界内部で出ていました。
そして、6月15日にサイパン島にアメリカ軍が上陸して以来、
「東条おろし」が加速、
7月7日のサイパン島守備隊玉砕を経て、
ついに東条英機は退陣することになります。

1944年1月7日に認可されたインパール作戦も
相次ぐ日本の敗北を見て、どこかで勝利を得たいという思いと、
インド独立運動を支援し、政治的にも日本の力を見せておきたいという思いから、
東条首相はこの作戦を認可しました。
しかし、インパール作戦は大失敗に終わり、
さらにサイパン島を失陥するに及び、
東条首相の進退は窮まることになります。

東条英機を中心とする陸軍の強気の姿勢には、
日本の力を実際よりも誇大に考え、過信する姿があったと思います。
日中戦争での中国軍との戦いで、中国軍に連勝していた日本は、
戦争を甘く見るようになっていました。
すでに日中戦争の時点で軍も国家も疲弊していたのですが、
その疲弊を直視しようとはしませんでした。
そして太平洋戦争に突入していくことになります。
戦争を指導する者には戦争を終わらせる覚悟が必要だと思います。

掲載日:2015年7月18日(土)

 

人命を大事にする

太平洋戦争中、アメリカ軍は人命を大事にし、
墜落した飛行機のパイロットを最大限救出しました。
飛行艇を派遣して救出したり、潜水艦を配置して救出したりしました。
それに対して日本軍は捕虜になることを恥とし、助かることを潔しとせず、
パイロットたちも不時着して捕虜になるよりであれば、
(もしかしたら味方に救出される可能性もあるわけですが、)
飛行機ごと敵に突っ込んで自害して果てました。

人命を大事にすることが両軍の明暗を分けたと思います。
アメリカは優秀なパイロットが数多く救助され、
その物量とも相まって、日本軍に差をつけていきました。

こういった事は、現代でもあてはまると思います。
人を使い捨てにして、
心身の調子を崩そうともそれっきりで、
新しく人を補充して回そうとする。
どことなく、人命を軽視した日本軍のような気がします。
人を大事にして、何かあっても救出し、
熟練の人間をさらに熟練にさせて長く活用する、
そういう考え方が、現代の企業や団体、社会でも必要なのではと思います。

掲載日:2015年7月17日(金)

 

台風11号上陸

台風11号が日本に上陸してきました。
屋根を打つ激しい雨音を聞きながら、
太平洋戦争を思い出していました。
硫黄島では水が貴重品で、内地からの贈り物は水がもっとも喜ばれたということですが、
こういう台風が来てくれると、硫黄島では万歳の嵐だったのだろうと想像します。
硫黄島に限らず、島ではどこも水が貴重品ですが、
台風が来てくれると、水の補給ができてうれしかったのだろうと思います。

1945年2月19日、アメリカ軍が硫黄島に上陸し、
1か月に渡る激しい戦いの末、3月17日、守備隊は玉砕しました。
冬の季節、台風などはなく、雨は少なかったでしょうから、
アメリカ軍上陸の日まで、陣地構築にあたっていた硫黄島の将兵の苦労は
並大抵のものではなかったと思います。

台風の雨音を聞きながら、太平洋戦争の戦いを思い起こしていました。
最近の関東はしばらく大変な暑さが続いてましたが、ほっと一息という感じがします。

掲載日:2015年7月16日(木)

 

ハチと戦う

今日の私はハチと戦っていました。
自分の住居にハチが巣を作ろうとしていて、
単に飛んでいるだけなら放っておきますが、
さすがに巣を作られては困るので、
ドラッグストアでハチ撃退スプレーを買ってきて、
ハチに吹きかけました。

そうしたら、非常に強力なスプレーで、一吹き命中させることができたら、
ハチはもがき苦しんで墜落しました。
そのもがき苦しむ様を見て、
アメリカ兵が火炎放射器で日本兵を焼いたとき、
こんなふうな気持ちで炎に巻かれ、もだえ死ぬ日本兵を見つめていたのだろうかと、
太平洋戦争の戦いを思い起こしました。
ハチを駆除するという小さなことですが、
そんなことを考えたりしながら、何か割り切れぬ思いを抱きました。

ハチは大方駆除し、作り初めだった巣も除去しましたが、
戻ってきたハチが巣のあった付近をとびまわるので、
しばらく戦いが続きそうです。
おたがい命がけの戦いですが、
平和に共存するというのは難しいことです。

掲載日:2015年7月15日(水)

 

死と接するということ

私の祖父の太平洋戦争体験談でもっとも印象深いのは、
ビルマ(現ミャンマー)で起こった出来事です。
このとき、英軍戦闘機から機銃掃射を受けた祖父は、
すぐ隣にいた友人の首が撃ち抜かれるという光景を目撃することになります。
戦友は即死でした。
この話を思い出す時、戦争と「死」ということを思います。

大変幸いなことに、私の友人で亡くなった人はいません。
私の親しい人で亡くなったのは祖父だけで、
父母も生きていますし、友人、親しい人、みんなありがたいことに生きています。
死と接するということが幸にしてないのですが、
親しい友人が今日も死に明日も死にという状況は
考えるだけでおそろしいことだと思います。

親しい人が死んでしまう、
それだけでも嫌なことです。
だから戦争は抑止しなければならないと思うのです。
今日も生きていける、
あしたも生きていける、
それはありがたいことです。

掲載日:2015年7月14日(火)

 

戦いは巧遅よりも拙速を尊ぶ

戦争に関する格言で
「戦いは巧遅よりも拙速を尊ぶ」
という言葉があります。
この言葉は人生にも通じるものがあるように思います。

意味は、十分に準備して遅くなるよりも、
とにかく早く行動を起こした方が勝利に近づくという意味です。
太平洋戦争で代表的な例としてはミッドウェー海戦があります。
航空機の武装を陸用爆弾に兵装転換したとき、敵空母発見の報があり、
そのまま陸用爆弾で攻撃すべきか、魚雷に戻すかという選択で、
魚雷に戻している間にアメリカ軍の攻撃を受けてしまい、
陸用爆弾でとにかく出撃して攻撃するべきだったとはよく言われるところです。
第二次世界大戦全体で見ると、
1943年のクルスク戦(ドイツ軍とソ連軍の戦い)では、
ドイツ軍は軍備を整えるのに時間をかけてしまい、
その間にソ連軍は防備を固めてしまっていて、
早く攻撃に出れば勝利を得ることができたかもしれないとは
よく言われています。

このことは人生にも共通していて、
まず行動を起こすことが大事だと思います。
実際に行動を起こし、行動する中で見えてくるものがあります。
頭の中でシミュレーションを繰り返しているばかりでは見えないものが、
実際にアクションを起こしていく中で起こり、想定外のことが起こってきます。
そして、想定外のことに対応していく中で、
本当の自分の姿が見えてくるのだと思います。

ある程度準備を固めたらとにかく動いてみる。
動くことで物事はさらに具体的になっていきます。
戦いは巧遅よりも拙速を尊ぶ。
つたなくても早く行動を起こす方がより実現に近づくと考えています。

掲載日:2015年7月13日(月)

 

コロンバンガラ島沖海戦

1943年7月12日、中部ソロモン諸島のコロンバンガラ島沖で海戦が起こりました。
1943年2月の日本軍ガダルカナル島撤退以降、戦いの焦点は中部ソロモン諸島に移りました。
5月にアッツ島を占領して太平洋北部に一定の目途をつけたアメリカ軍は、
その矛先を太平洋南部の日本軍の一大拠点ラバウルに向け、進撃を開始します。
日本軍はラバウルの前衛として中部ソロモンに防衛線を張り、
日米両軍が激突します。
日本軍は中部ソロモン諸島に駆逐艦を動員して補給物資や補充兵員を送り込みます。
それを阻止しようとするアメリカ艦隊との間で海戦が発生しました。

1943年の夏から秋にかけた戦闘はあまり語られることがありませんが、
中部ソロモン諸島を巡って日米の激しい攻防が繰り広げられました。
アメリカ軍もまた試行錯誤で、ニュージョージア島の戦いでは、
日本軍のムンダ飛行場を占領しようとしてジャングルから攻撃を行ない、損害を出しました。
ガダルカナル島で日本軍が行おうとしたジャングルからの飛行場攻撃の苦労を
アメリカ軍もまた味わうことになりました。

ガダルカナル島失陥以降も、日本軍は懸命の努力で中部ソロモン諸島の防衛に挑みましたが、
徐々に押してくるアメリカ軍の攻撃の中で莫大な人員と物資を消耗し、
日本軍は体力を奪われて後退していきます。
国内の生産力が高まり、多数の増援を得たアメリカ軍は、
夏の時間をかけて、日本軍を押していくことになります。
この間はアメリカ軍が力を蓄える時期でもありました。
そして1943年秋になって、アメリカは攻勢に出て、
日本軍は敗北していくことになります。

掲載日:2015年7月12日(日)

 

太平洋戦争を生き抜いたとある海軍軍人の話を聞く

今日は太平洋戦争を経験された
とある海軍軍人だった方のお話を聞く機会があり、
勉強させていただきました。
93歳になられたということですがとてもお元気な方でした。
その方は20代前半の青春時代を、
太平洋戦争という時代の中で過ごさねばなりませんでした。
とても生き方がしっかりと感じられて、
私自身の20代前半を振り返ったときに、自分はどう生きてきたかということを思い出し、
そのときどきをしっかり生きることができていたのだろうかと反省しました。
93歳になって自信に満ちて若き日の過去を振り返る姿を拝見したとき、
私もまた同じように自信に満ちた姿で語れる93歳になれているだろうかと思い、
これからしっかり生きていきたいと思いました。

私の場合はたまたま太平洋戦争を題材としていますが、
そのような体験談は戦争に限らずとも、
さまざまな世代でいろいろな苦労をした人がいらっしゃると思います。
そういった過去の体験談を聞くことは、とても勉強になり、また勇気づけられると思います。

不幸や苦労は人を強くすると思いました。
もちろん戦争という形で経験したことは悲しいことですし、
戦争という形で経験することは避けたいことですが、
自信をもってこれからの人生の困難に立ち向かいたいと思いました。

貴重なお話を聞かせてくださったとある海軍軍人さんに感謝します。
今日の会合をセッティングしてくださった方々にも感謝します。
ありがとうございました。

掲載日:2015年7月11日(土)

 

降伏する勇気、降伏しても戦い続ける勇気

8月15日が近づいてきました。
あと1か月ありますが、私にとってはとても短い1か月です。
毎年、この日が近づくと、心がどことなくソワソワして、
今年も終戦記念日が来るんだと感慨にふけります。

降伏するということを考えたときに、
日本軍とアメリカ軍などの他国軍隊との考え方の違いを思います。
日本軍では降伏を禁止していたわけですが、
他国軍隊では、やむをえない最後の瞬間には降伏を認めていました。
降伏は戦いの終わりではなく、新しい戦いの始まりでもあり、
敵国に捕らわれたとしても、脱走をするなど抵抗を続け、敵の後方を攪乱し、
あくまで敵国にダメージを与え続けることが教育されていました。
捕虜となることは恥ではなく、捕虜となっても兵士だったのです。

戦いをする上においては、降伏する勇気も必要なのではないかと思います。
ただ降伏すればよいというわけではなく、
降伏しても戦い続ける勇気が必要なのだろうと思います。

日本に降伏を是認できる勇気があれば、
日本軍と日本の運命はもっと違ったものになっただろうと思います。
難しいことだとは思いますが、
そのような勇気を持つことが戦いをする人間には必要なのではないかと、
太平洋の島々で行われた玉砕と、太平洋戦争の終戦を考えたときにいつも思うのです。

掲載日:2015年7月10日(金)

 

台風近づく

沖縄に台風が近づいていますね。
まだ本格的な台風の季節ではないので、日本本土には近づいてきませんが、
沖縄の人たちは災難だと思います。おつかれさまです。

雨が降ると爆撃ができなくなるので、
戦争後期の日本はありがたかったのではないかと思います。
厚い雲に覆われることで、
失敗した空襲も数多くあったことと思います。
雨のおかげで命拾いした市民も少なくなかったかもしれません。

今年の関東の梅雨は勢力が強いようで、
毎日雨です。
晴れる日が待ち遠しいです。
そう思える平和な日々に感謝です。

掲載日:2015年7月9日(木)

 

そして今日もまた雨

今年の梅雨は長いですね。
こうもはっきりした梅雨があるのは久しぶりのような気がします。
ここまで梅雨が長いと、夏が恋しくなります。
ぎらぎらして暑い夏。そんな夏でも、季節が巡ってほしいと思います。

雨に濡れる将兵たちを想像します。
梅雨寒の夜、雨に打たれて監視する兵士たち。
雨の夜一晩立ち尽くす。
それもまた兵士たちの仕事であり、宿命だったでしょう。

梅雨の夜にそんなことを思います。

掲載日:2015年7月8日(水)

 

盧溝橋事件起こる

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、
盧溝橋事件が起こりました。
ここから日中戦争がスタートし、
太平洋戦争へとつながっていくことになります。

私は盧溝橋を訪れたことがあります。
ホームページのトップに飾っている写真がそれで、
盧溝橋を訪れたときの写真です。
ここから太平洋戦争に至る長い戦争がスタートしたのかと思うと、
とても感慨深いものを感じました。

今日は七夕でもありますが、
空は曇っていて、今一つすっきりとしません。
平和はもちろん大事ですが、
相互理解の重要性をあらためて思います。

掲載日:2015年7月7日(火)

 

日本軍、ガダルカナル島初上陸

1942年7月6日、日本軍がガダルカナル島に上陸します。
あの長い戦い、ガダルカナル島の戦いがここから始まります。

もともとガダルカナル島はイギリス領でしたが、
そこに日本軍が上陸します。
ソロモン諸島近辺で大きな飛行場を設営できるような広い平地があるのは
ガダルカナル島だけであり、
フィジーやサモアを占領し、
アメリカとオーストラリアの連絡を遮断しようと
考えていた日本軍は、
飛行場を設営し、勢力圏を広げるため、
ガダルカナル島へと上陸します。
この上陸はアメリカ軍にただちに察知されるところとなり、
アメリカ軍はこの島をスタートに本格的な反攻を開始します。

誰も名を知らない島。
ガダルカナル島の戦いはそんなところからスタートしました。
多くの人間と物資を飲み込んだガダルカナル島の戦い。
まだ明けぬ梅雨の空に、
ガダルカナル島の戦いを想いました。

掲載日:2015年7月6日(月)

 

インパール作戦中止命令

1944年7月5日、ビルマ方面軍は第15軍にインパール作戦の中止命令を出します。
3月8日に始まったインパール作戦は、
おびただしい数の死傷者を出し、
4ヶ月経過して、ついに終了を迎えることになりました。

遅きに失した中止命令ですが、
日本軍将兵たちは今まで来た道なき道、急峻な山脈を
また歩いて帰っていかねばなりません。
多くの日本軍将兵が命を落としました。

梅雨の空に、ビルマを歩いた将兵たちの苦しみを思います。
白骨街道と呼ばれた道。
道なき道に日本軍将兵たちの遺体が道のように連なっていたことでしょう。
その臭いも壮絶だったと思います。

戦争が終わるまでにはまだ1年の歳月が必要となります。

掲載日:2015年7月5日(日)

 

今日も雨

今日もまた雨の日です。
昨日のような激しさはありませんでしたが、
しとしとと降り続く長雨でした。

戦争と言えば雨というイメージがあります。
雨具を着てひたすらに雨に打たれながら
顔をしかめて敵をにらむ、
戦争映画ではよく描かれるようなシーンだと思うのですが、
戦争とは辛く苦しいものであるということが
そんな雨に凝縮されているような気がします。

沖縄では、組織戦終了後も各兵士の判断で戦いは続き、
兵士たち県民たちが自決していったのだろうと想像します。
今日の雨の空を見上げながら、
70年前の時を思い出します。

掲載日:2015年7月4日(土)

 

今日は雨

今日は激しい雨が降りました。
梅雨の盛りです。
これだけ雨が降ると水不足にはならないのだろうと思います。

ビルマの雨季を想像しました。
ビルマの雨季は世界一の雨量だそうです。
そんな雨に打たれて生きる将兵たちの気持ちを想像しました。
南方地帯ではどこでも激しい雨が降っていたものと思います。
雨に濡れながらも戦い続ける兵士たちの心情を思ったのです。

もう少しで梅雨も明けるでしょう。
梅雨が明ければ本格的な夏。
終戦です。

掲載日:2015年7月3日(金)

 

キスカ島撤収作戦

1943年7月29日、キスカ島守備隊が撤収に成功します。
1945年5月29日にアッツ島が玉砕してから、
アリューシャン列島のアッツ島の東に位置するキスカ島は、
アメリカ軍艦隊に包囲され、逃げる術なく、
アッツ島と同様に玉砕と思われていました。
しかし、この頃の日本軍はまだ友軍を救出する力がありました。
北太平洋特有の濃霧に紛れた日本艦隊はキスカ島に接岸、
キスカ島守備隊を全員救出します。

このあたりの動きは映画「キスカ」であますところなく再現されています。
木村昌福少将率いる水雷艦隊は、突入できる機会をうかがい、
出撃しては反転して戻るをくりかえします。
その動きは周囲を苛立たせますが、木村少将は機会を待ちに待ち、
7月29日、いよいよ作戦を成功させます。

72年前の今日、7月2日、キスカ島守備隊の兵士たちはどんなことを思っていたのか、
その気持ちを想像します。
アリューシャン列島は夏でも肌寒く、夜はだいぶ冷え込んだものと思います。
アッツ島が玉砕し、自分たちも同じ運命になるのかと、
覚悟と不安と入り混じった夜を過ごしていたのだろうと想像します。
キスカ島将兵を救出できたことは日本軍の貴重な成功だと思います。



掲載日:2015年7月2日(木)

 

今年も後半に入りました

今日は7月1日、今年も後半に入りました。
今年の上半期を振り返ると、あっという間の半年で、
いろいろなことがあったなあと思います。
太平洋戦争研究を無事に続けてこれたことを
とてもうれしく思います。

今年は戦後70年になりますが、
この夏は熱い夏になるのだろうと思います。
今年の後半も情熱的に太平洋戦争研究を続けていきたいと
思っています。
よろしくお願いします。

掲載日:2015年7月1日(水)

 



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