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NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争

太平洋戦争を理解するために手頃なテレビ番組が何かあれば……
という人にお薦めしたいのが
「NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争」
です。
第1集から第6集までの全6回で、
1992年から1993年にかけて放映されました。
もう20年前の番組になりますが、
今でも色あせない番組になっていると思います。

私がこの番組を見た時、中学生でした。
太平洋戦争を詳しく知ることができ、
大変勉強になったことを覚えています。
当時は祖父がまだ元気だった頃で、
茶の間で祖父と2人でこの番組を見ました。

当時の戦争を生きた人たちの証言もふんだんで、
太平洋戦争とは何かということを考えさせられます。



掲載日:2015年5月31日

 

太平洋戦争研究を続ける

今日の関東はすごい快晴で、熱くなっています。
真夏のような陽気ですが、湿気がないため、過ごしやすくなっています。
当時の日本は今ほど暑くはなかったかもしれませんが、
初夏の陽気は暑く、かつ過ごしやすかったのだろうかと想像します。

子どもの頃に太平洋戦争を深く知りたいと思い、
それ以来、太平洋戦争研究を続けてきました。
勉強したいという気持ちだけはあるのですが、
なかなかうまく勉強できずに、
学生の頃、20代の頃は、「何も知らない」と厳しい指導を受けることが多かったです。
今でも「何も知らない」という状況は大きくは変わっていないのですけれども……
太平洋戦争を理解することはとても難しいと思います。
けれども、諦めきれずに、太平洋戦争研究を続けてきました。
自分の人生の中で、太平洋戦争研究を続けてきたことは、
一つの軸になっているように思います。
難しくて、困難なことが多かったですが、
それでも研究を続けてきたことはよかったと思いますし、
こうやって書き出すことで理解も深まり、
少しずつ、わずかばかりずつではありますが、
研究も進んできたように思います。

太平洋戦争の結果として、今の日本が形作られたと考えていますが、
太平洋戦争を理解することは、今の日本を理解することにつながると考えています。
難しいと思われる太平洋戦争を理解し、
その理解したことを解説することを通して、
誰かの役に立てたらいいなと思っています。
これからもがんばっていきます。

掲載日:2015年5月30日

 

アッツ島玉砕

1943年5月29日、アッツ島守備隊は最後の突撃を敢行、玉砕しました。
アッツ島はアリューシャン列島にある米国領で、
ミッドウェー作戦のときに陽動作戦として日本軍が占領した島で、
以後、占領を続けていた島でした。

1943年に入り、ガダルカナル島の戦いが日本軍の撤退で終了すると、
米軍はその攻撃の矛先を北方のアリューシャン列島に向けてきました。
1943年5月12日、米軍はアッツ島に上陸、
日本軍守備隊との間で激しい戦いが繰り広げられました。
そして5月29日、追い詰められた日本軍は最後の突撃を敢行することになります。

本来であれば、島の守備隊が奮戦している間に
連合艦隊が駆け付け、敵の水上部隊と艦隊決戦を行い、
勝利をつかむというのが日本海軍の王道の戦略でしたが、
アッツ島の守備隊が奮戦している間、
特別な増援も補給も送ることはできず、
ただやられていくのを見ているほかなかったのが現実だったでしょう。
降伏を禁じた日本軍の悲惨な戦闘の一つであったと思います。

5月下旬、日本本土は初夏の陽気で暑くなっていますが、
アッツ島は霧に包まれて肌寒い気候だったのだろうかと想像します。
北方の寒い土地に倒れた兵士たちの無念を思います。

掲載日:2015年5月29日

 

五・一五事件

1932年5月15日、東京にて五・一五事件が起こりました。
海軍青年将校たちが首相官邸に突入し、首相犬養毅を暗殺しました。

1930年のロンドン海軍軍縮条約において補助艦保有量の制限を決めるにあたり、
対米比率が約6割に抑えられたことで、海軍の中に不満を持つ人々(艦隊派)が現れました。
時に軍縮が叫ばれ、海軍の予算が削られたことも艦隊派の不満を高めました。
政府が海軍の承認を得ずして条約調印を進めたのは、
大日本帝国憲法で定められている天皇の軍隊統帥権の干犯ではないか
という「統帥権干犯問題」が提起され、艦隊派の不満は高まっていました。

そして、海軍青年将校たちは国家改造を考え、首相犬養毅の暗殺を計画します。
犬養毅首相は
「まあ待て、話せばわかる」
と首相官邸に踏み込んできた青年将校たちを説得しようとしましたが、
「問答無用」と青年将校たちの銃弾を受け、死亡することになります。

この事件の首謀者たちは軍法会議で罪を問われますが、
軽い量刑で収まり、
このことは後の二・二六事件へとつながっていくことになります。
また、事件後、政治家たちはテロを恐れるようになり、
軍部も統帥権を強く主張するようになり、
軍閥政治は強まっていくことになります。

犬養毅首相は軍縮を支持していましたが、
そういった努力は軍部のテロにより圧殺されました。
テロを起こした首謀者たちを厳しく罰するべきでしたが、
それは行われず、さらなる軍部の事件(二・二六事件)へとつながっていきます。
五・一五事件はあまり目立たず、
深く語られることがない事件ですが、
日本の政党政治を終わらせ、軍閥政治が加速していった分岐点として、
重要な事件だと考えています。

掲載日:2015年5月28日

 

米軍のビアク島上陸

1944年5月27日、米軍がビアク島に上陸し、ビアク島の戦いが始まりました。
ビアク島はニューギニア島北西部にある島で、
広く平坦な飛行場適地を有し、戦略上の要衝となっていました。
米軍は6月のマリアナ諸島進攻に先立ち、
マリアナ方面の作戦を支援するべく、ビアク島の占領を企画し、
ビアク島に上陸しました。

日本軍はこの米軍上陸に対して敢闘し、
上陸後1か月以上にわたって飛行場を使用させない戦いぶりを示しました。
太平洋戦争後半の戦闘で、
米軍に上陸後1か月以上飛行場を使用させなかった戦いはビアク島のみです。
米軍は飛行場の使用について、6月19日に起こったマリアナ沖海戦に間に合わせることはできませんでしたが、
マリアナ沖海戦は日本軍の敗北に終わります。

日本軍はビアク島を絶対国防圏に入れており、
戦略的要地であることは理解していましたが、
制空権および制海権が奪われており、
補給物資や増援を送り込むことはできず、
島を守備していた日本軍は敢闘しましたが、力及びませんでした。

この後、米軍はマリアナ諸島に上陸し、
サイパン島、テニアン島などを占領し、
日本本土はB−29の爆撃にさらされていくことになります。

掲載日:2015年5月27日

 

平和祈念展示資料館に行く

今日は東京都新宿区にある平和祈念展示資料館に行ってきました。
昔、10年以上前に一度行ったことがあるのですが、
今はどんなふうになっているのだろうかと思い、
再び足を運んでみました。

JR新宿駅に降りて都庁方向へ歩くこと約10分。
新宿住友ビルの48階に平和祈念展示資料館はあります。
以前はシベリア抑留の労苦や恩給欠格者の事実を伝えるような展示がされていましたが、
今はそれに加えて兵士の労苦や海外引揚者の労苦も描かれていました。

印象的だったのはスプーンの展示です。
シベリア抑留の収容所内では、新しい別の飯盒やスプーンを手に入れることは不可能で、
スプーンを自作するほか道はなく、
アルミ板からスプーンを加工して自作し、使っていました。
飯盒に支給された粥をかき出すのにスプーンは必須で、
命の道具だったのです。
そんなスプーンがたくさん展示されていて、
シベリアに抑留された兵士たちあるいは民間人たちの苦労を想像しました。
特に印象的だったのは、スプーンの柄が女性の裸体を模したようになっているスプーンで、
芸術への思い、命への思い、生きることへの思い、そういったいろいろな感情を感じることができました。

コウリャンのご飯が展示されていて、
コウリャンとは満州地域で盛んに栽培されていた穀物で、
実は堅かったということですが、
味はあまりおいしくないのだろうなと思いました。
以前に訪れたときとは人形の展示も変わっていて、
展示内容が見直されていることを感じました。

あまり知られていない資料館かもしれませんが、
一度見学に行ってもよい場所だと思います。
入館無料です。

参考URL:平和祈念展示資料館

掲載日:2015年5月26日

 

戦争体験者の体験談を聞く

昨日、とある戦争体験者の体験談を聞く機会に恵まれ、
お話をうかがってきました。
今年の誕生日で96歳になる方で、
昭和19年から20年の敗北著しいビルマ戦線を戦い抜かれた方です。
その激しい戦いの軌跡をお聞きし、
生き残られて本当によかったと思いました。
非常にお若い元気な方で、スーツを着こなしていらっしゃいました。
若い時から鍛えられた精神力や体力の結果なのだろうかと思いました。

戦争中は憲兵として職務をされていたのですが、
憲兵という仕事の詳しい話をお聞きし、
憲兵というもののイメージが変わったように思います。
一般的には悪者と思われがちな憲兵ですが、
憲兵の実際をお聞きすることができて、よかったと思います。
司法係という軍隊内の刑事事件を扱う仕事をされていたのですが、
真面目に真剣に職務と向き合う姿を拝見しました。
その仕事上、普段歩いている際も威厳を保つように指導されていたそうで、
けむたがられたのもやむを得なかったのかもしれません。

印象深かったのは救命胴衣代わりとしていた「竹」の話で、
南方に向かうために船に乗り込んだとき、
船が撃沈されたときは一人一人一本ずつ太い竹を与えられて、
浮き輪代わりとするということになっていました。
訓練のときは竹を一人一人に渡すことはスムーズにできたのですが、
いざ船が攻撃されたと思われ、あわや沈没か?という事態になったとき、
誰もが自分自身の竹を取ることに集中していて、
訓練のときのようにスムーズに竹が行きわたらず、最後の人の方から
悲鳴のような声が聞こえてきたそうで、
緊急事態のときの難しさをあらためて感じました。
実際には他の船が攻撃されていたのであって自分たちの船ではなく、
自分たちの船は助かったということでした。

太平洋戦争の実情、軍隊の現実、人間の本質など
あらゆることが勉強になりました。
生の体験談を生に聞くことの大事さを痛感しました。

掲載日:2015年5月25日

 

「祖父の戦争体験」をテーマにセミナーを開いて

昨日、とある仲間内の集まりでセミナーを開く機会があり、
「祖父の戦争体験」をテーマにセミナーを開催しました。
1人の持ち時間は20分で、
10人ちょっとぐらいの人が聞いてくれました。
話した内容はこのホームページにも掲載している「祖父に戦争体験を聞く」の
ダイジェスト版のようなもので、
先日祖母に聞いた体験も含めて、話をしました。

いろいろな人が自分のテーマでセミナーを展開して、
私はそのうちの一人だったわけですが、
意外にも多くの人が集まってくださり、
太平洋戦争への関心が決して低くないことを感じました。
もっと自信を持って太平洋戦争の研究発表をしていきたいと思いました。

祖父の戦争体験については、同じ話をくりかえし何度もしているのですが、
いつも初めて話すかのように新しい気持ちで話をします。
祖父のビルマで受けた機銃掃射事件は何度も思い出されます。
命はリレーであるということを思いますし、
平和であれば生きた命もあり、生まれたドラマもあっただろうと
平和の大事さを思います。

掲載日:2015年5月24日

 

「NHKスペシャル 総理秘書官が見た沖縄返還〜発掘資料が語る内幕〜」を見て

5月9日に放送された
「NHKスペシャル 総理秘書官が見た沖縄返還〜発掘資料が語る内幕〜」
を見ました。
1972年5月15日に沖縄は日本に復帰を果たしますが、
その内幕を語るということで、とても楽しみに番組を見ました。

太平洋戦争で沖縄本土が激しい戦場になって以来、
沖縄には米軍の基地が広がり、沖縄県民の重荷になってきました。
もし米軍沖縄上陸が起こる前に太平洋戦争が終わっていたらどうなっていただろうかと考えますが、
戦争に負けた結果としても、巨大な米軍基地が残されることになりました。

沖縄返還に当たっては、沖縄に配備された核兵器を撤去した上で返還できるかが
焦点となりました。
核兵器を撤去した上で、それと引き換えに
朝鮮半島有事の際は日本本土の基地を使ってもよいし、
その際に戦争に巻き込まれても仕方がないという佐藤栄作首相(当時)の
苦悩が語られました。
結果としては、核兵器は撤去されましたが、朝鮮半島有事だけでなく、
場合によっては台湾など他の地域で有事が発生した際も沖縄および日本本土の基地を使用できる
という条件で沖縄は返還されることになりました。

沖縄の米軍基地を引き続き自由に使いたいアメリカとの
激しい駆け引きを感じました。
戦争に負けた後の立場というのはやはり苛酷なものであると
あらためて感じます。
未来に向けて沖縄の基地問題の軽減化を考えていくことが大事だと思います。

掲載日:2015年5月23日

 

「NHKスペシャル 戦後70年ニッポンの肖像−日本人と象徴天皇−」を見て

4月18日・19日に放送された
「NHKスペシャル 戦後70年ニッポンの肖像−日本人と象徴天皇−」
を見ました。
天皇がテーマということでとても興味深く番組を見ました。

印象深かったのは「ひめゆりの塔事件」の映像です。
1975年、明仁皇太子(当時)と美智子さまのお二人は、
沖縄の日本復帰後、皇族として初めて沖縄を訪問し、
ひめゆりの塔を訪ねて献花をします。
そのとき、皇族の沖縄訪問に反対するゲリラに火炎瓶を投げつけられます。
この事件の映像を初めて見たのですが、
当時の沖縄県民の感情をまざまざと見せつけられるような映像でした。
一度は車に戻ったお二人でしたが、
あらためて車を出てもう一度ひめゆりの塔を見学したということで、
お二人の志の高さを思ったのでした。

憲法に「象徴」と規定された天皇ですが、
本当の象徴になっていくまでの道のりが描かれていたように思いました。
最初はGHQから憲法草案として“symbol”と示され、
象徴とは何ぞやというところから始まった象徴天皇の議論。
幾多の困難を経て、本当に日本人の象徴になっていったのではないかと
私は感じました。

昭和天皇は沖縄国体を機会に沖縄を訪問することになっていましたが、
直前に腸の病気にかかって訪問は中止となり、
その後、ついに沖縄を訪問できることはありませんでした。
昭和天皇の無念を感じます。

掲載日:2015年5月22日

 

元自衛官の方からお話を聞く

昨日は防衛大学校出身で元自衛官という方にお会いする機会があり、
いろいろなお話を聞くことができました。
防衛大学校や自衛隊では、太平洋戦争の戦訓をどのように教えているか質問しました。
例えばノモンハン事件では日本軍はソ連軍に対して後進性を痛感することになりましたが、
そのような戦訓は後に生かされず、太平洋戦争に突入していくことになったわけですが、
どのように太平洋戦争が解釈されているか疑問に思ったのです。
聞いたところ、太平洋戦争に関する通史は勉強するのですが、
特別な戦訓、こういうところがダメだったとかこうすべきだとかというような話は
なかったそうでした。
幹部自衛官として、中立な立場で物事を教育していくということだろうということでした。

戦訓を学ぶとは価値観であるということを思いました。
こういうところがダメだった、こうすべきだったという考えは
一つの価値観であり、思想であり、
こういうのはダメだ、こうすべきだとは一概に言えないのだろうと思いました。
戦訓を学ぶ、そこから教訓を得て後世に活かすというのは
まさに研究者の仕事であり、
過去を分析してより良い未来を作っていこうとするのが研究者の仕事なのだろうと
あらためて思いました。

さまざまなお話を聞くことができ、とても参考になりました。
これからもいろいろな方にお話を聞いてみたいと考えています。

掲載日:2015年5月21日

 

ノモンハン事件のはじまり

1939年5月14日、満蒙国境のノモンハンの地で
関東軍とモンゴル・ソ連軍が武力衝突、
ノモンハン事件がはじまりました。
武力紛争は春から夏にかけて行われ、9月に停戦協定が成立し、
紛争は終わりました。
ソ連の最新鋭の戦車部隊の前に関東軍は惨敗を喫し、
日本軍の敗北で紛争は終わります。

このノモンハン事件の敗北から日本は何かを学べばよかったのですが、
学ぶところはなく、
日本軍のおごりは止むことがなく、
太平洋戦争へと突入していきます。
このとき、ソ連軍の陸軍部隊の優秀性を感じ、勉強していれば、
あるいは太平洋戦争への道は変わっていたかもしれません。

この後、日本陸軍が対戦するのは中国軍ばかりで、
中国軍相手では連戦連勝を続けることができましたが、
広大な中国大陸を制圧する能力は日本軍にはなく、
日本軍は疲弊していきました。
そしてアメリカ軍もまた中国軍と似たようなものだろうと
おごった日本陸軍は、太平洋戦争で痛い目を見ることになります。

掲載日:2015年5月20日

 

祖母と父に戦争体験を聞く

5月14日から18日まで所用により秋田の実家に帰っていました。
これを機会に祖母と父に戦争体験を聞きました。
私が太平洋戦争の研究をはじめたきっかけは祖父の戦争体験の話を聞いたことでしたが、
思えば祖母から戦争体験の話を聞いたことがなく、
祖母に戦争の話を聞きたいと思いました。
また父は終戦の時3歳で、何か記憶があればと思って父にも話を聞きました。

祖母は山形県の農村の生まれなのですが、
農家ですから、食べるものには不自由しなかったそうで、
空襲があったわけでもなく、
家族や近所の人で出征した人がいたわけでもなく、
太平洋戦争開戦や終戦について、特別な思いを抱くことはなかったということでした。
何かかしらの思いがあったのではと思ったのですが、肩すかしを受けたような感じで、
現代の私たちが中東で起こっている戦争を思うように、
祖母にとって太平洋戦争は遠くにあった出来事のようでした。
当時の国民には、戦争といっても大きな影響を受けずにすごした人たちもいたのだろうと思いました。
逆に言えば無関心ということでもあったわけですが、
もしかしたら政治への無関心も軍部独走に影響を与えたかもしれません。

父もまた農村の生まれで、
食べるものには不自由しなかったそうで、
終戦について覚えていることは何もないということでした。
父のおじいさんは日露戦争に行っていたらしいのですが、詳しい話は分からず、
そのほか、家族や親類で兵士として出征した人もいなかったということでした。
3歳でも何かあれば明確に記憶に残ると思うのですが、
何も覚えていないということは、それだけ戦争の影響は何もなかったということなのでしょう。

祖母や父に戦争のことを聞くのは初めてでしたが、
生の声に触れることができ、あらためて太平洋戦争を見つめることができました。

掲載日:2015年5月19日

 

「平和じゃないと生きられない −沖縄で語りだした障害者たち−」を見て

昨日、NHKEテレのハートネットTVで放送していた
「平和じゃないと生きられない −沖縄で語りだした障害者たち−」を観ました。
障害者の戦争については、語られているところが非常に少なく、
貴重な番組だと思って放送を観ました。

「国家の米食い虫」という言葉が胸に刺さりました。
障害者たちが戦争の中でさらに抑圧され、差別された実態を知りました。
生き残って本当に良かったと思います。
戦争という巨大な渦の中では、障害者たちは反戦という方にはいかず、
戦争支持という方にどうしても行ってしまうということで、
弱い立場にあるものが体制に付いていこうとする中で、
すがっていかないと生きていけなかった実態を感じました。

「平和じゃないと生きられない」というタイトルは
まさにそのとおりだと思います。
戦争という中で、誰もが自分だけ生き残るのに必死になる中で、
障害者の人たちがどのような目に遭うかは
想像するに難しくないと思います。
戦後70年を経て、やっと話し出した人も最近は多いですが、
後世の人のために、ぜひ当時の状況を
話してほしいと思います。

参考URL:
NHKサイト「平和じゃないと生きられない −沖縄で語りだした障害者たち−

掲載日:2015年5月13日

 

米軍アッツ島上陸

1943年5月12日、米軍がアッツ島に上陸しました。
アッツ島はアリューシャン列島の米国領で、
ミッドウェー海戦のとき、陽動作戦として日本軍が占領しました。
1943年2月に日本軍がガダルカナル島から撤退すると、
アメリカは反攻を開始するわけですが、
その中で、米国領のアリューシャン列島、アッツ島の奪回が計画されます。

1943年3月26日に起こったアッツ島沖海戦で
日本軍はアッツ島への増援や補給物資を送ることに失敗し、
その後のアッツ島の戦いに影を落とすことになります。
そして、5月12日、米軍はアッツ島に上陸しました。
アッツ島を守備するのは山崎保代大佐率いる2650名、
それに対するアッツ島上陸米軍部隊はA・E・ブラウン少将率いる11000名でした。
日本軍は寡兵で奮戦するも、アメリカの大部隊の攻撃には力及ばず、
5月29日、最後の突撃を敢行、全滅しました。
日本国内では「アッツ島玉砕」と発表され、
公式に玉砕と発表された最初の戦いとなりました。

日本軍はミッドウェー作戦の陽動作戦としてアッツ島を占領したわけですが、
暗号を解読していたアメリカ軍はまったくそのおとり作戦には乗らず、
日本軍の目的は果たされず、アッツ島だけが占領されます。
アリューシャン列島方面は天候が悪くて濃霧が発生する日が多く、
この方面からの作戦は難しいと見られていましたが、
北方からのアメリカ軍の圧力の防止ということで、
アッツ島占領は継続されました。

全滅を「玉砕」と言い換え、美辞麗句で飾り国内に発表するやり方はここから始まり、
以後、日本軍の全滅は増えていくことになります。

掲載日:2015年5月12日

 

資源の安定供給

おとといの土曜日、親しい仲間たちと一緒に会って話す機会がありました。
その中で「なぜ太平洋戦争は始まったのか」という話題が出て、
「アメリカに石油を止められたからと聞くがそういう理解でよいのか」
と問われました。

太平洋戦争が日本の自存自衛のために始まった戦争であることは確かだと思います。
当時の世界は基本的人権という考え方が未発達で、
戦争で勝って領土を広げ、植民地を広げて富を得ようという考え方がまだまだ一般的でした。
自国の勢力圏を拡大していこうという中で
日本と英米の権益が中国を舞台に衝突し、日本が中国へ勢力を拡大していく中で、
英米は態度を硬化させ、資源の対日輸出禁輸、そして戦争へと発展していきます。

もし、世界的に資源を安定供給するような仕組みがあれば、
戦争は避けられただろうかと考えたりもします。
現代でもそのような仕組みはまだ未発達かもしれませんが、
資源を安定的に供給されるような仕組みがあれば、
無理に戦争をして勢力を拡大していくという必要性は薄まるかもしれません。
戦争が起こりにくい世界を作っていくことは不可能ではないと考えています。

掲載日:2015年5月11日

 

珊瑚海海戦

1942年5月8日、日本海軍の空母部隊と米海軍空母部隊が交戦しました。
史上初の空母対決となった珊瑚海海戦です。
連合軍の反撃拠点となっていたポートモレスビーを攻略しようとした日本軍は、
海路から陸上部隊を送り込もうとし、そこに空母を護衛として付けました。
総司令官は第4艦隊司令長官井上成美中将です。
一方、このポートモレスビー攻略を暗号解読で予見していた米海軍は
フランク・J・フレッチャー少将率いる空母部隊を派遣します。

日本側から参加した空母は、翔鶴、瑞鶴、祥鳳の3隻、
米側の参加空母は、レキシントン、ヨークタウンの2隻です。
戦闘結果は、
日本:祥鳳沈没、翔鶴大破、瑞鶴無事、
米:レキシントン沈没、ヨークタウン中破、
となりました。

井上成美司令長官は作戦継続の中止を決断、
ポートモレスビー攻略作戦は無期延期となります。
この決断を下した井上について、海軍上層部は厳しい評価を付けることになります。
暗号を解読し、日本側の意図をある程度読み込んでいたアメリカに対し、
日本は五里霧中という状況で、日本艦隊も大きく傷ついており、
そのような状況で作戦継続、攻撃続行を決断することは
前線指揮官としては難しかったものと思われます。

この海戦で索敵の重要性や米急降下爆撃機の強力さなど学ぶ点は多々あったのですが、
日本側はこの海戦から多くを学ぼうとせず、課題はそのままとされ、
そのことは次のミッドウェー海戦の敗因にもつながっていきます。

掲載日:2015年5月10日

 

ドイツの無条件降伏

1945年5月8日、ドイツが無条件降伏しました。
4月30日にヒトラーが自殺してから、
ドイツ総統はデーニッツに代わり、
無条件降伏を模索しました。そして5月8日、
ついにドイツは降伏しました。
ドイツの降伏により、第二次世界大戦のヨーロッパの戦いは終了します。
ドイツが行ってきたユダヤ人の迫害、ホロコーストの歴史も
やっと終わることになります。
そして今日、ドイツは戦後70年を迎えます。

日独伊三国同盟のうち、イタリアとドイツが相次いで無条件降伏し、
日本だけが残ることになりました。
日独伊で単独不講和を約束していたわけですが、
それぞれが降伏してしまい、その約束にとらわれることがなくなり、
日本も降伏する良い機会だったと思いますが、
日本の戦争はこれからさらに3ヶ月続きます。
ドイツと向き合っていたアメリカの戦力は日本に振り向けられ、
ドイツとの戦いが終わったことでソ連も日本に参戦、
総崩れの状態で日本は敗北することになります。

掲載日:2015年5月8日

 

歴史秘話ヒストリア「幻の巨大潜水艦 伊400 日本海軍 極秘プロジェクトの真実」を見て

昨日午後10時から、NHK総合で
歴史秘話ヒストリア「幻の巨大潜水艦 伊400 日本海軍 極秘プロジェクトの真実」
を放映しており、視聴しました。

伊400は第二次世界大戦当時世界最大の潜水艦で、
水上機「晴嵐」を3機搭載できる潜水母艦でした。
直接ワシントンやニューヨークを爆撃することを念頭に開発された大型潜水艦で、
アメリカの本土を攻撃することでアメリカ国民に動揺を与え、戦意を喪失させようという戦略で、
山本五十六連合艦隊司令長官が考案した戦略でした。

しかし、設計・建造に時間がかかり、
完成したのは終戦間近でした。
伊400には特攻という任務が与えられ、
水上機晴嵐を敵空母に特攻させて打撃を与えるという作戦が立てられました。
作戦実行のために太平洋上を航行中、終戦を迎え、
特攻作戦は実行されることなく帰投することになります。

印象深かったのは、伊400の乗組員に「生きよう」という希望が湧いていたことで、
乗組員の間では「生き残ったら干し柿を売って商売しよう」などと
生きて帰ることへの希望が湧いていたことが語られており、
終戦70年経って語ることができたことなのかなあと思いました。
今までだったら「生き残って申し訳ない」という気持ちで口をつぐんでいたかもしれませんが、
70年経ち熟成した平和国家を迎えて、
やっと当時の本音が語れるようになったのではないかと思います。

伊400はアメリカ軍に詳細に調査され、
それは戦後アメリカによる大型潜水艦の建造へとつながっていきます。
そして、原子力潜水艦に潜水艦発射弾道ミサイルを搭載して運用するという発想に行き着くことになります。

掲載日:2015年5月7日

 

江戸東京博物館を訪ねる

今日は友人と両国にある江戸東京博物館を訪ねました。
江戸から東京にかけた歴史を展示している博物館なのですが、
戦前から戦中、戦後にかけた歴史も展示されていて、
見学してきました。

B−29爆撃機に搭載されていた機関銃や落とした焼夷弾などが
展示されていました。
それを見たとある年配の男性が
「これで日本は竹槍で立ち向かおうとしたんだから勝てるわけないやな」
といったことを仲間の男性たちと話していて、
確かにそのとおりだなあと思って、その機関銃や焼夷弾を見ました。
戦時中の一般庶民の家庭を再現した部屋なども展示されていて、
当時の庶民たちの労苦を忍びました。

幕末のペリー来航から、
アメリカとの関係は続いているわけですが、
ペリー来航のときに軍事力で開国を迫られたときから、
現代に至るまでアメリカに勝てたことはついに日本はなかったと思いました。
勝てないなら勝てないなりに立ちまわる生き方というのはあると思いますが、
そのような生き方で良しとせずに勝とうとしたところに、
日本の無理があったと思います。

幕末のペリー来航時の展示も詳細で、
大変勉強になりました。おもしろい展示でした。

掲載日:2015年5月6日

 

古賀峯一連合艦隊司令長官の殉職

1944年5月5日、古賀峯一連合艦隊司令長官の殉職が発表されました。
1944年3月30日、アメリカ軍は日本海軍の重要泊地となっていたパラオを攻撃、
古賀は飛行艇でフィリピンのダバオへ避難しようとしたところ、
低気圧に巻き込まれ、遭難。3月31日に殉職しました。
古賀の死はしばらく隠されていましたが、5月5日に発表されました。

山本五十六の戦死に続き、次代連合艦隊司令長官であった古賀も殉職したということで、
最高指揮官の死が相次ぎ、
最高指揮官の命をどう守るかということが問われているように思います。
常日頃から攻撃を受けた際の脱出は考えておくべきだったでしょう。
低気圧に巻き込まれて殉職したということは、
それだけ急が迫っていたということかもしれませんが、後味の悪いものを残しています。

このとき、同時に低気圧に巻き込まれて不時着した二番機から
重要暗号書がフィリピンの親米ゲリラに奪われ、アメリカ軍に渡るという事件も起きています。
墜落したときに暗号書は処分されることはありませんでした。
これもまた脱出時の行動が十分に訓練されていなかったからだと思われますが、
降伏や撤退を不名誉とした日本軍では、
こういった脱出時の手際が十分訓練されていたとは思えず、
敗戦へのステップを加速させることに一役買っていたものと考えられます。

古賀峯一の後を継ぎ、連合艦隊司令長官になったのは豊田副武。
敗戦へと走っていく連合艦隊を指揮することになります。

掲載日:2015年5月5日

 

極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷

1946年5月3日、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が開廷されました。
1948年に判決が出るまで、およそ3年の裁判が始まりました。
東条英機をはじめとする日本の指導者28名が裁かれました。

勝者が敗者を裁くというのは自然のなりゆきなのだろうと思います。
このような形の法廷が適切だったのかよく問われますが、
戦争に負けて指導者が責任を問われるというのは自然なことで、
理屈はどうあれ、裁かれた結果は致し方ないものだったのではないかと思います。
「平和に対する罪」が後付けではないかということで、
確かに後付けだったと思いますが、
文明国として勝者が敗者を裁く形として、
このような法廷という形になったのは、苦心した跡なのだろうと思います。

当時の日本の指導者が裁かれることで、
逆に一般国民は免罪されたのだと思いますが、
そのことは復興のエネルギーになったのではと思います。
日本の指導者たちが悪かったということで、
連合国側が良いものとしてイメージが植え込まれ、
その後の統治にも良い影響があったと思いますが、
これは連合国側の戦略だったのだろうと思います。

日本の最高指導者たちが裁かれるのは致し方ないとして、
末端の兵士たちが戦争犯罪で裁かれていったのは、
中には命令で仕方なく行った人もいたでしょうし、
戦争の苦しさを感じます。

掲載日:2015年5月4日

 

憲法記念日に思う

今日は憲法記念日です。
1947年5月3日、日本国憲法が施行されました。

日本国憲法については、よくアメリカから押し付けられたと言われますが、
同時に当時の国民の願いを表現しているものでもあると思います。
太平洋戦争を経験して、
日本の軍部による軍国主義政治にへきえきした日本国民は、
今までの戦争に満ちた日本は嫌だよね、
国民の自由が認められない日本は嫌だったよね、
ということで、平和憲法を生んだのだと思います。
国民の願いに合致していたからこそ、
今まで68年間変わらなかったのだと理解しています。

国のあり方は時代に合わせて変わっていくものだと思うので、
憲法を改正すること自体はかまわないと思いますが、
憲法第9条に代表される平和主義に生きるという精神は
これからも続いていってほしいと思います。
また、基本的人権を尊重する精神も
言うまでもなくこれからも続けていかねばならないと思います。

掲載日:2015年5月3日

 

大学で戦争を学べるか

現在の日本の大学で、戦争を専門に教えているところはないのが現実です。
強いて言えば防衛大学校ぐらいなのでしょうか。
私は高校生のとき、戦争を大学で学びたいと思い、
日本の大学の学部学科を調べましたが、
戦争を専門に教えているという大学はありませんでした。
その状況は現在でも変わっていないと思います。

そんな中で国際関係学が一番近いだろうかと思いました。
大学では私は文学部で心理学を学んでいましたが、
戦争を学ぶことに近づければと思い、
法学部の政治学の授業も受講していました。
そんな中で国際関係学を学び、
大変面白く思いました。

もし日本の大学で戦争を学ぶとすれば、
文学部で歴史として学ぶか、
法学部で政治学として学ぶか
という道になると思います。
戦争を学ぶことは就職には直接つながらないかもしれませんが、
大学で好きなことを存分に学んで、
就職は就職で切り替えて自分の興味のある企業を受けていけばよいと思います。

大学で戦争を学ぶには、自分なりに研究テーマを決めて、
大学の既存の学部の中で研究していくことになるでしょう。
がんばっていきましょう!

掲載日:2015年5月2日

 

太平洋戦争を研究し続ける

子どもの頃から太平洋戦争を探求し続けてもう30年ちかく経ちます。
まだまだ全体を理解するには至らず、
細部を理解することも叶わない感じですが、
途中中断したりもありましたが、子どもの時から一貫して探求し続けてきました。

太平洋戦争はあまりにも大きいテーマであるので、
研究し続けようとすると挫折してしまうこともあるかもしれません。
その途方もないテーマの大きさや重さに耐えかねて、
途中で投げ出したくなることもあるかもしれません。
私がそうでした。
でも、なんとかかんとか続けてきて今に至っています。
誰かが歴史を知り、その歴史を埋もれたままにせず伝えていく必要があるのだと思います。

私と同じように子どもの頃から太平洋戦争に興味があって勉強し続けているという人もいるでしょう。
なかなか周囲に理解されずに逆境にありながらも続けているという人もいるかもしれません。
分からないことが多くて悩むこともあるかもしれません。
一緒に太平洋戦争を研究していきましょう。

小さなことでもかまわないので、何かありましたらメールください。

掲載日:2015年5月1日

 



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